静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日説教要約

2012年07月29日 | 説教要約

「神の国への招き」 マタイによる福音書22章1~14節 

 主イエスは引き続き、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである」(2)と語られました。王は神、王子は子なる神キリスト、最初に婚宴に招かれた者たちはユダヤ人、続いて招かれた者たちは異邦人のことであります。神はアブラハム以来、ユダヤ人に声をかけて招いていました。そして、いよいよ御子(王子)をこの世に遣わして、婚宴のような喜ばしい時をもとうとしていたのです。しかし、彼らは救い主イエスを拒否し十字架につけたのであります。その結果、王は怒り、最初に招いた者たちを裁いたように、神の恵み、神の救いはユダヤ人から異邦人へ向けられたのです。

 続いて招かれた人達は王子の婚宴につきましたが、礼服を着てない人は王に追い出されてしまいました。宮廷に招かれた者たちには王は礼服を用意していました。突然招かれた者にもそれは幸いでした。しかし、外にだされたこの者は王が用意した礼服を着ずに、王の威光を傷つけたのです。この礼服とは、イエスによる救いです。十字架による義の衣(エペソ4:22,23)です。王が神の国に入れるように、イエスによる礼服を用意してくださったのです。

 この礼服を着ている者は幸いです。

2912/7/29 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年07月29日 | 天のマナ

「大声援の中を」 

 四年に一度のオリンピックが開催されます。開会式と閉会式は、毎回主催国の様々なアイデアがふんだんに詰まっていて、とても楽しみの一つです。おっくうな私は、長時間、開会式のすべて観ずに、ニュースのダイジェストなどで観ますが、毎回素晴らしいものです。大観衆の歓声が沸き、光と音楽とが演出をします。そしてどのように聖火台に火が灯されるのか、世界が注目しています。

 オリンピックのマラソンを見ると、いつも次の一つのみ言葉を思い出します。

 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル12:1)

 私たちの信仰の歩み、信仰の導き手であり、その完成者であるイエス様がコーチで、走りきった先輩の信仰者達が、私たちを囲み応援しているのです。やがて、神の国の門は開かれ、さらなる大声援の中、私たちもその門をくぐるのであります。もうしばし耐え忍んで、主イエスを仰ぎ見つつ共に走りましょう。

 

2012/7/29

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講壇の花

2012年07月29日 | 生花
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天のマナ

2012年07月22日 | 天のマナ

「主による回復」 

 夏季聖会での恵みをお分かちいたします。今回は兄弟団の牧師先生が講師でした。三回のメッセージの中で、二回目にエリヤの箇所が取り上げられました。

 カルメル山でのバアルの預言者450人、アシュラの預言者400人、総勢850人対1人(エリヤ)との戦いに大勝利したエリヤは、リバイバルが起きると思ったのです。しかし、アハブ王の妻イゼベルは悔い改めるのではなく、エリヤの命を狙い、エリヤは逃げていきます。彼は燃え尽きた者となり疲れきり、使命を放棄し命がとられることを主に願います。主は、そんな彼を懇ろに回復をなさいます。まずは、十分な眠りを与え、食物を与え、さらに眠りを与え食物を与えます。肉体の回復です。それから、主は彼の思いを何度も聞き受け止めます。精神を癒すカウンセリングです。さらに、主はその中で彼の霊までに届き、み言葉を与え回復させます。そして、彼の助け手(エリシャ及び7000人)を与えるのです。 

 主は、私たちが疲れ切った時、エリヤにしたように、私たちに回復を与えられます。そして、私たちを助ける方は主イエスご自身なのです。

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

2012/7/22

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講壇の花

2012年07月22日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年07月15日 | 説教要約

「神の国にふさわしく」 マタイによる福音書21章33~46節

 主イエスは、十字架を一週間前にして、三つのたとえ(兄弟のたとえ、ぶどう園のたとえ、王子の婚宴のたとえ)を語りました。今日は最初の二つから、主のメッセージをいただきましょう。

Ⅰ 神の国にふさわしくない姿

  兄は、「父がぶどう園に行ってくれ」との言葉に、「はい、行きます」と言いましたが行きませんでした。これは神に外面的には従っているように見えるが、実際は神に従っていないユダヤ人を指しています。弟は、「嫌です」と言いましたが、後で心を入れ替えて行きました。これは、外面的には従ってないように見えるが、神のメッセージにさされ、心から悔い改めた取税人、遊女らの罪人、異邦人のことであります。

 ぶどう園のたとえも同じです。家の主人は神、ぶどう園は神の民、農夫たちは神の民の指導者、僕たちは預言者ら、主人の子は救い主イエスです。神の民の指導者らは、神の信頼を裏切り、自分達の分(管理を託された者であること)を忘れて主人になろうとしまっていたのです。この姿は神の国にふさわしくありません。

Ⅱ 神の国にふさわしくあれ

  主人は、多くの僕を送り、息子まで送った。ただちに滅ぼすことのできる力をもって、事柄を解決しようとはしなかったことをみます。それは、神の忍耐強さをあらわします。そして、1人でも多くの者が神に立ち返るように願っているのです。

 神の恵みの時、救いの日のうちに神に立ち返り、自らを分をわきまえ、神の信頼に応える者でいましょう。

2012/7/15 説教者 杉本守

 

 

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天のマナ

2012年07月15日 | 天のマナ

「主なる神によって遣わされる」

 日曜日は主の日であります。主の日に礼拝をささげることから一週間が始まります。主なる神が人を造られた目的は、①造ってくださった神を人が愛すること②自分を愛するように隣人を愛することであります。自分を愛するように隣人を愛する源は、「神の愛を受け神を愛する」ことであります。「神を愛する」とは、まず神を礼拝することに表されていきます。

 礼拝において、私たちは日常の事々から離れて、主なる神の前に静まりひざまずき、神との交わりの中で、神の言葉をいただくのであります。そして新たなる主の霊のいのちを受けて、遣わされていくのであります。最後の黙想でもう一度、み言葉を心に留め、次の賛美によってそれぞれの置かれている場(学校、職場、家庭、地域)に遣わされていくのであります。黙祷の次に賛美をしているのは、黙祷で内的、個人的に主の恵みを留めて終わらないように、派遣されていくという意味があるのです。今週も主のみ言葉を受けて、遣わされていきましょう。

 2012/7/15

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講壇の花

2012年07月15日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年07月08日 | 説教要約

「神の翼に憩う」 詩篇57篇1~11節

 ダビデは危機の中でどのような信仰をもって主を仰いだのでしょうか。

Ⅰ 危機の中での神への呼ばわり

 表題に従えば、「ダビデは洞(エン・ケディ)に入ってサウルの手を逃れた時によんだもの」であります。危機の只中でした。しかし、その時ダビデがしたことは、主を呼んだのです。主にあわれみを求め、信頼を告白し、神の翼を避け所にしたのです。

Ⅱ 神の勝利による賛美

  その中でダビデの心は定まったのでした。それは、自分の救いに終始するのではなく、むしろ神の栄光を求める思いがわきあがり、神を賛美することに心が定まったのです。

 どんな状況の中にあったも、主の翼の中にあることを確認し、主をほめたたえていきましょう。

2012/7/8 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年07月08日 | 天のマナ

「主なる神の愛に応える信仰」

 午前の祈祷会で、旧約聖書の創世記から3年に亘って、み言葉をいただいてきました。イザヤ書を終わり今はエレミヤ書に入ってきております。イザヤ書にもエレミヤ書にも、真の神から離れ偶像を拝む神の民に対して、真の神に立ち返るように、何度も何度も繰り返されて語られています。しつこいくらい読むのが嫌になるほどです。なぜ、こんなに真の神は、神の民に預言者を通して語っているのでしょうか。それは、神は愛であり、神の民を愛しているからであります。神の民が、神の裁きを受けることをなんとか避けさせようという思いからであります。しかし、神の民は立ち返らずに、バビロンによって滅ぼされバビロンへ捕囚となります。後に神の憐れみによりバビロンから解放され、戻ることができます。

 時代を過ぎ、主イエスがこの世に来られた時も同じであります。やはり神の民は真の神から離れていました。神がこの世を愛し、救い主イエスを送られたのにもかからわず、十字架にまでつけてしまいました。後にローマによって滅ぼされます。

 さらに、今の時代はどうでしょうか。

 「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか。」(ルカ18:8) と主イエスは言われました。再臨が近いこの時こそ、真の神の民である教会、クリスチャンが信仰の旗を高く掲げて、主の愛に応える歩みをして行こうではありませんか。

2012/7/8

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