静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

7月29日 天のマナ

2007年07月29日 | 天のマナ
「思いと心を一つにして」

 先週の金曜日に、次女の中学生活最後の吹奏楽コンクールを見てきました。毎年、日曜日でしたので行けませんでしたが、今回は金曜日ということで始めて行くことができました。市民文化会館の大ホールで行われ、26校中5位(金賞)という結果で県大会に選出され、部員はもちろん本人は涙の歓喜でありました。私も自分の中高生時代吹奏楽部だったことを思い浮かべていました。

娘達は、次週の県大会に備えてさらなる練習です。受験勉強はさてどこへやら・・・。全部の中学校の演奏を聴いたわけではありませんが、順位に関わらずどの中学校も一生懸命練習した成果を、演奏者全員が思いをと心を一つにして演奏していました。どの学校も私の目からみたら、金賞で感動を与えてくれました。

二年前までは、音も出ずにいた子供達ですが、毎日の鍛錬の成果は素晴らしいものです。まだまだ一人一人の技術は、それほどではないかもしれませんが、一生懸命な姿と思いと心を合わせる事は素敵でした。
 
 私達のこの礼拝で、思いを心を一つにし、共同体として、信仰による豊かな礼拝という演奏を神の前に奏でたいのです。主はどんなに喜んで下さるのでしょうか。
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講壇の花

2007年07月29日 | 生花

担当 J・S姉
                                           投稿 S・I

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主日礼拝説教要約

2007年07月22日 | 説教要約
「神のあわれみ」(マルコによる福音書7章24~30節)

 ガリラヤ伝道の合間に主イエスは、異邦人の地ツロで休まれていました。そこに異邦人であるギリシャ人の一人の母親がイエスのもとに来たのでありました。この記事より神のあわれみを見ていきましょう。

Ⅰ 神の目に留められない私達
  この女性の娘は、汚れた霊につかれていたのでありました。彼女は娘から汚れ た霊を追い出してくださるように主に願います。主イエスは、優先的目的の一つ として旧約を成就するために来られ、旧約に直接関するユダヤ人に福音をおもに 伝えていましたので、そのことを彼女に伝えます。主イエスは、異邦人伝道は  後日の弟子達にゆだねられていたのでした。
  しかし、彼女は「主イエスの言葉はもっともである」と言うと同時に、神様の 恵みは溢れていて、異邦人にも及びますとへりくだりと信仰を表すのです。

Ⅱ 神の目に留めてくださる主イエス
  主イエスは、彼女の信仰に応え、この異邦人である娘から汚れた霊を追い出す のです。本来ならば、この時点では枠の外のような異邦人でありますが、主のあ われみは溢れていて、異邦人であっても信仰による時に、主の御業を体験できた のでした。

 私達も本来ならば、永遠の神、宇宙を御手に治める神様から見たら、あまりにも小さくて、目に留めていただけるような者ではありません。さらに何の功績もないばかりか、神に反することばかりしているものであります。けれども、神のあわれみは溢れているて、主イエスは、今もあなたに目をとめて、信じるものに救いをなされるのであります。

2007/7/22 説教者 杉本守
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7月22日 天のマナ

2007年07月22日 | 天のマナ
 「My heart for you」 作詞作曲:オン・レイホン
 Do you still remember the times when you cried?
             You tears just broke my heart in two 
 Though you thought that no one knew
             Every time you cried, I was always on your side
 I cried for you So I won’t you trust me when I say?  
         Give me your hand All I want to do is hold you close
 Give me your heart That is all I will ever ask of you
       You have my word I will never leave you feeling all alone
 Oh, how I love you But can you see?
             Can you feel me heart for you?

 あなたが泣いていたときもあったね その涙がわたしの心を引き裂いた 
 あなたはだれも知らないと思っていたけど あなたの涙の一粒一粒落ちた時 
               わたしはあなたのそばで 一緒に泣いていた 
 だからこういう風に言う時わたしを信じて 手をのばしてごらん 
     あなたを抱きしめてあげたい 心を開いてごらん たったそれだけだよ
 わたしは決してあなたを孤独にさせない 
                  あなたはそのわたしの約束を持っている
 どんなにあなたを愛しているか わかるかい?
                  わたしのあなたへの心の思いが    

(主イエスからあなたへのLove Songです。「MHFY CDより」)

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講壇の花

2007年07月22日 | 生花



                                          投稿 S・I

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主日礼拝説教要約

2007年07月15日 | 説教要約
「神による罪のゆるし」 マルコによる福音書7章1~23節

 救い主イエスの名が広まるにつれ、救い主を待ち望んでいたユダヤ教のパリサイ人や律法学者は、主イエスを救い主として受け入れない所か、主イエスと弟子達の行動を調査し非難したのでありました。それは、「パンを食べる前に手を洗わない」というもので、衛生的な意味でとがめたのではなく、ユダヤ人のしきたりとして、「パンを食べる前に手を洗うという宗教的儀式を行わなければならない(宗教的に他者から受けたかも知れない汚れを洗い落とす)と定められているのにしない」というもものでした。彼らは神の言葉(律法)よりも、人の言い伝え(神の言葉に人間が付加したもの(拡大解釈)を優先していたのであります。
 それに対して主イエスは、「先祖からの言い伝えには真の権威はあるものではなく、神から与えられた言葉(律法)こそが真に守るべき権威のあるものであり、あなたがたこそ、神の戒めを本当に守っていない。口先では神を敬うが、心は離れ捨てている。神の言葉を無にしている」と応えました。
 外から入ってくるものは、人の腹を通り外へ出るだけ、しかし、人の内から出てくるものが人を汚すのであります。

Ⅰ 人の内から出てくるもの
  1 人の心の中から悪い思いが出てくる(マタイ23:25)
  2 悪い思い、性的乱れ(不品行、姦淫、好色)、盗み、貪欲、欺き、殺人、    邪悪、ねたみ、高慢、愚痴
  3 このような罪の支払う報酬は、人格の崩壊、関係の混乱、永遠の死であり    ます。

Ⅱ 神の内からでてくるもの
  神の賜物は、ロマ3:22~にあるように、イエス・キリストを信じる信仰に よる義であり、イエス・キリストのあがない(十字架)による義(罪のゆるし) であります。また、ローマ6:23によるとイエス・キリストによる永遠の命で あります。

 私達のうちから出る罪を認め、主イエスを信じ歩みましょう。主イエスは罪を赦し、義とし永遠の命を与えるのです。

2007/7/15  説教者 杉本守
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7月15日 天のマナ

2007年07月15日 | 天のマナ
「あなたがたは世の光である」           

 主イエスは、弟子達に向かい、「あなたがたは世の光である」と言われました。弟子達のどこに「世の光」としての根拠があったのでしょうか。それは、主イエスを救い主と信じ従っていたということです。主イエスは、神を信じ従う者を「世の光」とし、「世の光」と見ておられるのです。では、神様はこの世界をどのようにみているのでしょうか?神の目から霊的にこの世界を見たならば、この世界は暗闇であります。神から離れ、自己中心に歩む人達が罪を犯し続け、罪の奴隷、サタンの奴隷になって永遠の滅びに向かっています。「愛」は「欲望」に刷り返られ、「真実、誠実、忠実、純潔」は死語となりつつあります。
 
 しかし、その中で神に立ち帰り神の救いを受けたキリスト者達が、暗闇を照らす灯台のように、主イエスの光を放っていることも見ています。教会堂でキャンプで聖会で、救われる人が起こされる時、その人は「世の光」とされ、新しく光を照らし出すのです。しかし、逆もありえます。せっかく「世の光」とされたのに、世俗の波にのまれ神に従うことをやめ、「世の光」としての輝きを失ってしまうことです。それはどんなに本人とって、周りの人々にとって損失となるでしょうか。私達キリスト者には、「世の光」とされていること、主イエスの光を放っているという深い幸いな自覚が必要なのです。
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受付の花

2007年07月15日 | 生花

担当 S・H姉
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主日礼拝説教要約

2007年07月08日 | 説教要約
「恐れることはない」 マルコによる福音書6章45~56節

 神の言葉により大群衆の心を満たし、神の奇跡による食物でと大群衆の腹を満たされた主イエスは、弟子達を舟に乗り込ませ沖へ漕ぎ出だせ、自らは祈るために静かな場所へ行かれました。湖の真ん中まで来たとき、夜の間中、弟子達は向かい風に悩まされていました。

Ⅰ 恐れる人間
 すでに舟を漕ぎ出して、6時間以上ははるかに過ぎていて、時は午前3時で辺りは暗く、弟子達の疲労度はピークになっていました。その弟子達の苦労を知り、主イエスは近づかれたのであります。しかし、暗闇と疲労のせいか、弟子達は主イエスを幽霊だと思い、叫び声をあげたのです。彼らにとって、見たこともない光景、海の上を歩かれる者の姿を、どう受け止めていいかわからなかったのです。人間は、未知の世界や自分の領域を超えた世界に出くわすと、恐れを持つのです。

Ⅱ 恐れから解放する主イエス
 漕ぎ悩んでいる彼らを主イエスはほっておかれません。彼らに近づき、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語られたのです。この「わたしだ」は原語では「エゴー エイミー」で、あのモーセが燃える柴の中より語られた神の名「わたしは有って有る者」をギリシャ語であらわす言葉、つまり、「私は永遠から永遠の神であり、全能の神である」ということであります。「その神なる私が、ここにいるではないか、恐れることはないのだ」と言っているのです。そして、主イエスは舟の乗り込まれますと風はやんだのです。

 私達は、弟子達のように未知の世界、自分の領域を超えた世界に出会うと恐れを持ちます。しかし、主は私達のすぐ隣で、声をかけてくださっているのです。舟に主イエスを迎えたように、私達も主イエスを心に迎え入れましょう。風はやむのですから。

2007/7/8 説教者 杉本守
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講壇の花

2007年07月08日 | 生花

投稿 S・I

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