静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年11月25日 | 説教要約

「神が成して下さった事を伝える」詩篇66篇1~20節

 本日は、この詩篇を16節を中心に、神の民の礼拝(1~12節)と礼拝で恵みを受けた者応答(13~20節)としてみ言葉に聴きたいと願っています。

Ⅰ 神が神のためになされたことを告げる

 神の民に礼拝への招待がなされ、神の民が賛美に参加し、神への信仰告白がささげられていす。その内容は、神が全能の方、唯一の方、統べ治める方であり、その神が神の民に成してくださったわざを振り返りっています。紅海渡渉、ヨルダン川を渡ったことをあげ、今現在も神の救いの出来事は成され続けているとの告白です。

Ⅱ 神がわたしのためになされたことを告げる

 この神は、神の民だけではなく、わたしという個人の信仰生活にもわざをなされていると告白されています。その救いを彼は、証しせずにいられませんでした。ゲラサの地で悪霊を追い出してもらった男が、主イエスに、神があなたにどんな大きなことをして下さったかを語るようにと言われたことを思い出します。

 主がわたしたちに、わたしに成された救いのみわざを告白し、主をほめたたえ、主を伝えましょう。

 2012/11/25 説教者 杉本守

 

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天のマナ

2012年11月25日 | 天のマナ

 「永遠のいのちのバトンタッチ」    

 昨日、あるご夫妻の記念会を教会堂でもちました。奥様が召された時の会葬礼状に息子さんが記した文章を読まさせていただきました。息子さんが生まれる時、お母さんの命の危険があるという中、お母さんは息子さんを産みました。そのことがある故に、命は受け継がれ、その命は孫にまで引き継がれ至っているという感謝の内容です。

 牧師である私は、記念会でそのことと共に、もう一つの命の引継ぎを語らせていただきました。それは、「永遠のいのち」の引継ぎであります。お父さんは、主イエスを救い主と信じ洗礼を受けました。お母さんもイースターの礼拝に来て神を崇めておられました。両親から地上での命のバトンタッチを受けると共に、神を信じ神に立ち返り神に従う歩みをし、何よりも大切な永遠のいのちのバトンタッチを受けること重要であります。そして、神の国で再会するという確かな希望に生きるのです。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

2012/11/25 

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講壇の花

2012年11月25日 | 生花
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天のマナ

2012年11月18日 | 天のマナ

「主に仕えることは教会に仕えること」    

 先週は、バザーをすることができ、多くの地域の方々が教会堂へ入られ、私たちクリスチャンと交わりました。私たちを通して主の輝きに触れた彼らには、主に近づく一歩となったに違いありません。また、兄弟姉妹の御奉仕に心から感謝いたします。各自が自分のなすことを熱心になし、一年一年、年を重ねているにもかかわらず、楽しみながら活き活きと奉仕している姿に感動を受けました。

 さらに私たちクリスチャンは、もう一歩踏み込んで、隣人の救いや成長のためにも業をなしたいのであります。礼拝への新来会者、求道者の方々、信仰をもって歩み始めた兄姉に対して、祈り、話を聴き、聖書を開き、主へ導いてあげることに熱心でありたいのです。礼拝に一人でぽつんと座っている隣人はいませんでしょうか?隣りに座り主に導いてあげましょう。

 「弟子たちにわたして配らせ」(マルコによる福音書6章41節)

2012/11/18

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主日礼拝説教要約

2012年11月18日 | 説教要約

「心の目を覚ましていなさい」 マタイによる福音書25:1~13

 マタイ24章は小黙示録と呼ばれ、終末の前兆、再臨、終末の出来事が記されていました。25章で主イエスは、突然の到来に対する備えを三つのたとえであらわしています。この24,25章を通して、主イエスは、弟子達に世の終わりと救いの完成、そして再臨を待ち望む信仰を手渡しましたのです。本日は、十人のおとめからみ言葉に聴きましょう。

Ⅰ 天国は喜び

  天国は喜びであります。それは、婚宴に譬えられているからです。ですから、終末は、神を信じて救いにあずかったキリスト者にとっては、主イエスをお迎えする喜びの時です。栄光の体を頂き携挙され、小羊の婚宴に迎え入れられるのです(「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」(黙19:6~9)。ですから、マラナタ(主よ、来たりませ)という信仰をもって待ち望みたいのです。

Ⅱ 心の目を覚まして待つ

  その待ち望みかたは、ここに出てくる 思慮深いおとめたちのようでありたいのです。主の再臨が、いつになるかわからないので、いつになっても良いように、突然来てもOKという日常にあって目を覚ましている信仰を持ち続けたいのです。再臨を信じないキリスト者はいないでしょうが、「まあどうにかなるという信仰」であってはいけません。

いつも心の目を覚まし、主なる神に真実に従って歩みたいのです。

2012/11/18 説教者 杉本守

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講壇の花

2012年11月18日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年11月11日 | 説教要約

「神が共にいてくださる幸い」 詩篇65篇1~13節

 この詩篇は、長く暗い試練の日々を通り抜け、輝かしい静かな朝を迎えている詩篇であります。

Ⅰ 試練の中での神の助け

 詩人はそれまでにいったいどんな暗い日々を通っていたのでしょうか。2~3節から自分の罪を見ることができます。また5~7節の背後に、外的に包囲されていたことも伺えます。さらに9節からは、長い飢餓があったことも知ることができます。しかし、いずれも神によって解決されているのです。罪は赦され、外敵は退けられ、飢餓によって苦しめられた生活は神の豊かな満たしで潤されたのでした。

Ⅱ 主が共におられる幸い

 詩人は、それぞれの問題や試練が解決されたことへの感謝はもちろん、それ以上に、神が共にいて下さっていること、主に選ばれ、近寄らせられ、大庭に住む者とされていることの幸いをもう一度確認し、主に賛美をささげているのです。

 私達の生涯にもしばし困難が訪れますが、主は私達を放置しておられるのではなく、御手の中に置いてくださっているのです。神の川は水で満ちています。そこにおらせ続けさせていただきましょう。

2012/11/11 説教者 杉本守

 

 

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天のマナ

2012年11月11日 | 天のマナ

「自由ということ」    

 ある神父は次のように言われた。「自分のしたいことをするのが自由ではないでしょう。人としてすべきことをするのが自由です」。

 「自由」は、ルールの中にあって本当の自由があります。野球で、アウトになっても交替しないで続けたならば、それは自分勝手であり、ルールに従わないなら試合は成り立たず、誰もが楽しくありません。ルールを無視した自由は、自由ではなく「自分勝手」であります。

 「神に造られた人として、神の許されている社会に生きる者として」のルールがあります。人の本分(人として当然なすべきこと)、神に造られ生かされている人のルールは、「神を信じ神に従い神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する」ことであります。日本語で「自由」と訳されている英語は、「フリーダム」と「リバティー」があります。「フリーダム」は「~からの解放」であり、「リバティー」は「自分で創造し、考え、選び取る」であります。ですから、自分勝手からはフリーダムとなり、神のルールの中でリバティーでありたいのです。「自分は、自分勝手をしているのだろうか、本当の自由をしてるのだろうか」と、自分の思いや言動をチェックしていくことを心がけたいのです。

2012/11/11

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講壇の花

2012年11月11日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年11月04日 | 説教要約

「神の言葉は必ず成る」 マタイによる福音書24章29~51節

 この箇所は、終末の出来事が語られています。

Ⅰ 世の終わりの出来事

 前回は、終末の前兆の箇所からみ言葉をいただきましたが、今回は終末そのものの出来事です。主イエスが再臨は二段階とされています。まずは空中再臨そして大艱難時代となり、その後、地上再臨によって大艱難時代は終わります。空中再臨によって大艱難時代が始まり、29節にあるように天変地異が起こります。また、終末の出来事は黙示録6章以降から詳しくみることができます。空中再臨により、先に召された者たちが復活し、生きているキリスト者が携挙され天にて小羊の婚宴がもたれますが、地上では大艱難が来るのです。

Ⅱ 世の終わりの時

 それではいつ終末が来るのでしょうか。世の中の多くの者達がその日を考え述べています。しかし、その日を知っているのは父なる神だけであります。子なる神イエスも、その日がいつであるかは父なる神にお任せしているのです。子なる神でさえ、その日は父にお任せしているのに、どうして人がその日を確定することができるでしょうか。その日を決める人たちは傲慢以外にありません。それでは、終末に対して心を備えなくていいのかといいますとそうではありません。「目を覚ましていなさい」とあります。いつ主イエスが来ても良いように心の目を覚まして準備しておくことが大切です。

 主の言葉は必ず成ります。いつも目を覚ましていて、「お待ちしていました」と主の前に立つ備えをしておきましょう。

2011/11/4 説教者 杉本守

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