静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年12月28日 | 説教要約
 「主の恵みを引き継ぐ」 詩篇69篇29~36節  


「神はシオンを救い、ユダの町々を建て直されるからである。そのしもべらはそこに住んでこれを所有し、そのしのべらの子孫はこれを継ぎ、み名を愛する者はその中に住むであろう。」(35~36)

 2014年も最後の礼拝となりました。五十数回の礼拝を愛する神の家族であります兄弟姉妹とささげることができまして感謝いたします。また、新年の御言葉を信じて一年歩ませていただきまして感謝いたします。新年に与えられたみ言葉をもう一度思い起こしましょう。

Ⅰ 主の言葉が与えられる幸い

 今年の教会のみ言葉は、詩篇69篇36節でした。この詩人は、神への叫びの中で神の御心を知ります。神がシオンを救い、ユダの町を建て直し、しもべらを住まわせ、子々孫々がこれを継ぐということでした。トンネルのような困難さの中でみさせられたものでした。あなただけではない、あなたの子孫、神の民を主が立て直し祝福するのです。私たちもトンネルの中を歩むようなことがありますが、創始者であり、完成者なるイエスがいてくださいます。トンネルはすでにイエスが通りぶち抜いてくださっているものなのです。

Ⅱ 主のみ言葉を体験する幸い

 どのようにしたら主のこのみ言葉を体験していけるのでしょうか。それは人間的な知識や経験、努力や財によってではありません。それは、神の言葉を信じる信仰よってであります。会堂返済もみ言葉を信じる信仰によって、ここまで来ることができました。次世代の信仰者が与えられることにおいても、み言葉をしっかり信じて体験させていただこうではありませんか。

 今年も多くの人がこの教会堂の門をくぐりました。幼児、小学生~青年、大人までです。私たちは福音を伝えてきました。多くの実を結ぶのを見たかといいますと、まだ見ていませんが、今もこの御言葉が必ず成されるとい確信は変わらず、主への信仰は深まる一方であります。今後もこのみ言葉を通して歩んでいきましょう。

2014/12/28 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年12月28日 | 天のマナ
「一年を振り返る恵み」

 この年は、二人の姉妹の受洗者を与えられ、神の家族にお迎えできたことは何よりもの喜びでありました。また、二人の兄弟を天に送り、天への希望をもう一度確認させていただいた年でもありました。一人の姉が転入会され、娘さんやお孫さんと礼拝に来られています。アート・セル、書道セルに続き、祈りとサポートによりゴスペルもスタートし、メンバーも賛美の中に霊的な恵みを受け、クリスマス伝道コンサートももたれました。会堂返済も最後の年で、残るはあと3ケ月となり、来年の5月6日の会堂完済感謝礼拝と感謝会も計画されつつあります。制作者の兄姉の熱意により、会堂にはステンド・グラスも2枚目が入り、3枚目が制作されています。さらに自分自身や家族のことも含めて、主の恵みを数えあげるならば、主の豊かな愛で胸が篤くなります。感謝で幸いな一年でした。

「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。」(詩篇34篇8節)

2014/12/28
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主日礼拝説教要約

2014年12月21日 | 説教要約
「救い主を心に迎える」 ルカによる福音書2章1~7節

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(新改訳:ピリピ人への手紙2章6~8節)

Ⅰ 救い主を迎えることができない忙しさ

「客間には彼らのいる余地がなかった」とあります。余地がないほど他の客でいっぱいだったのです。私たちの心はどうでしょうか? 現代人は忙しい。情報が氾濫していて、真理が埋もれてしまっているのです。そして、表面的な目に見える現象の多忙さで自らをごまかしてしまって、確かなものを逃しています。昔も今も同じであります。

Ⅱ 救い主を迎える心

 真理、確かなものとは。それは救い主イエスであります。どんなに時が過ぎようとも状況が変わろうとも、変わらない唯一の方です。その方が、この朝、今あなたの心の戸を叩いています。馬小屋のような心であっても入ってきてくださるのです。

 心の戸をあけて、救い主イエスに入っていただきましょう。

2015.12.21 説教 杉本守
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天のマナ

2014年12月21日 | 天のマナ
「クリスマスのマナー」 
「すべての人をを照らすまことの光があって、世に来た」(ヨハネ1:9)

 特に日本では、人の家に入る時に、誰もが靴を脱いで入るでしょう。もし自分の靴が泥だらけなら、外で泥を落として玄関で靴を脱ぎます。それが家に入る時の当然のマナーです。もし泥のついた靴で家に上がったならば、注意されマナーを教えられるでしょう。

 クリスマスのマナーはなんでしょうか。それはクリスマスの意味を知ることであります。先週のエンジョイクリスマスのチラシを受け取った子供が、「ぼくは、サッカーチームでクリスマス会をするから行けない」と言いました。今では世界中でクリスマスが祝われていますが、意味を知っている人は本当に少なく残念です。クリスマスの意味を伝えて行きましょう。

2014/12/21
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主日礼拝説教要約

2014年12月14日 | 説教要約
「わたしたちと共にいて下さる神」 マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(23)

Ⅰ 夫婦の絆を強める神
 
 ヨセフは、夢の中で主の使いに語られ、マリアが宿した子は、救い主で聖霊によることを受聞き、信仰を持って受け止めます。人間的にみたら大きな試練で、夫婦の絆が壊されるように思える出来事も、神には深い知恵があり、この素晴らしい出来事を通して、さらに夫婦の絆を強めるのです。

Ⅱ 共にいます神
 マタイによる福音書は、インマヌエルの神で始まります。そして終わりは、「見よ、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいるのである」です。主イエスは、私たちと共にいたくて仕方がないのです。こんな小さな罪深い私たちとです。なんとありがたいことでしょうか。
こんなに思われているなんて。

 この神と共に歩ませていただきましょう。

2014.12.14 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年12月14日 | 天のマナ
 「神の救いの偉大さ」
   
「なぜ2000年前のキリストが私たちの救い主で、キリストの十字架の出来事が私たちの救いになるのでしょうか」の問いを受けることがあるでしょう。ひとことで言いますならば、それは、「神のわざ」であります。具体的には、神が神のひとり子を私たちの救い主として、この世界に遣わされたからであります。そして、その救いのわざは、救い主イエスが罪びとである私たちの罪を負って、十字架の上で私たちの身代わりに死なれたということでありました。これを理解し信じ体験するには、聖霊なる神の働きが欠かせません。

 神は時間の中に生きておられるのではなく、永遠の中に生きておられます。人間は時間に縛られていますが、神にあっては、時間的な前後関係も、時間的な隔たりというものはないのです。二千年という時間は問題ではありません。二千年前のキリストの十字架の贖いを、今の私たちに適応することなど、何でもないのです。
「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(Ⅰペテロ3:8)

2014/12/14
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主日礼拝説教要約

2014年12月07日 | 説教要約
「神に恵まされた者」 ルカによる福音書1章26~38節

「御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。』」(28)


Ⅰ 神の偉大なわざ
  神がなされるわざはいつも偉大で人間の想像を遥かに越えるものであります。神が救い主をこの世界に送られる時もそれはユニークでありました。両親のもと、父と母の人間的な営みではなく、聖霊なる神が、処女マリヤの胎に子なる神救い主イエスを宿らせるというものでありました。全くもってユニークであり、神のみわざ以外にありません。神の使いの告知は、処女マリヤが身ごもって男の子を産むこと、イエス(主は救い)と名づけよ、その子は救い主であるというものでした。しかし、マリヤは非常に驚き戸惑い恐れます。どうして処女である自分が男の子を身ごもれるのか、名前もイエスをと名づけること、その子が神の子であり救い主であるということ、受け入れがたいものでした。世界中の誰よりも、マリヤ本人が受け入れることができない内容であったからです。

Ⅱ 信じ従う者
 けれども、マリヤはその数十秒後には、このことを信じ受け入れる告白をしています。どうしてでしょうか?この出来事の出所は神であることを知り、その神がなされていること、マリヤが信じていた神は全能の神であるからでありました。聖霊なる神により特別な方法をもって、神は救い主を送りなさったことを受け留めたのでありました。マリヤは、「神にはなんでもできないことがない」との神の言葉に立ったのでした。わたしは、「主のはしため(僕)です。お言葉通りこの身になりますように」との言葉に、彼女の信仰があふれ出ています。確信と平安に満たされた彼女は、救い主を送ってくだった神をほめたたえ、救い主の母とされたことを喜んで賛美をささげました。

 マリヤのように信仰をいただき、主の救いをさらに受けていきたいのです。

2014.12.7 説教者 杉本守
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2014年12月07日 | 教会案内
「人間を罪と死から救うキリスト」                       

 「宗教」と「道徳」の違いはなんでしょうか。道徳は、良心にそくした善いことを教えるということでしょう。宗教は、人の悩みや苦しみの源である罪や死からの救いと解放でありましょう。ほとんどの新興宗教は、現世的ご利益主義(商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、万病平癒、学業成就など)で、人間の問題を本当の意味で解決しません。人間を本当に救わない宗教は、そういう意味では、本当の宗教ではありません。

 神の独り子であるイエス・キリストは、なぜこの世界に来たのでしょうか。それは、人間の罪を赦し、人間を死から解放するためであります。救い主イエスは、十字架に掛かり私たちの罪を負われ身代わりとなられました。救い主イエスは死なれましたが、三日目に死を打ち破り復活されました。彼は今も生きていて、彼を信じる者の罪を赦し、復活させ永遠の神の国に入れてくださるのです。

 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡されたが、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」(ローマ4:25)

2014.12.7
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