静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2016年09月25日 | 天のマナ
「ただ主の栄光の為にわざをなす幸い」

 先週の愛修会に参加させていただき、大変幸いな時を持たせていただきました。篤い信仰をもって日本に来られたヴォーリスさん、その信仰を土台に宣教と事業に励まれ、一つ一つの働きを心を込めてなさいました。マザーテレサの「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです」の言葉を思い出しました。
 この愛修会のために3名の兄姉がよく準備してして下さいました。その賜物を活かしたご奉仕は素晴らしいものでした。防災訓練においてもそうですが、牧師があれこれとするのではなく、信徒の兄姉の賜物が引き出され用いられることは何と幸いかと改めて思いました。ヴォーリスさんを始め、グレース・チャペルの信徒の方々が、自己満足や人々の評価を求める自分の栄光のためではなく、ただ主の栄光の為に、主が崇められるためになされたわざ、きよめられた信仰者のわざを見させていただきました。
「だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。」(Ⅰコリント14:12)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2016年09月18日 | 天のマナ
「神の布石」  
 
 全知全能なる神は、歴史の初めから終わりまでを知り導かれると共に、わたしたち一人一人の人生を始めから終わりまでを知り導かれます。その導き方も人間の考えをはるかに超えた最善で最高なものです。先日のシメオン・セルで、独りの姉妹が話してくれました。それは、星野富弘さんが三浦綾子さんとの対談で、三浦綾子さんから「神の布石」という話をしてもらったと語られたお話でした。「布石」とは、「①囲碁で、序盤戦での要所要所への石の配置。 ②将来のために配置しておく備え」という意味があります。主なる神は、私たちの生涯に幸いをもたらそうと計画し、その為の布石を打っているのです。星野富弘さんは、小さい頃、家のお手伝いをしながら山道を歩いていると、み言葉が目に入りました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)です。その時には意味がわかりませんでしたが、体を痛めて動けなくなって、またこの御言葉に出会い、あの時からすでに、神は私に目をすでに留め、導いていたのだと知られたことでしょう。「なぜ、こんな所を通されるのだろう」と人間では受け止められないことがありますが、神様の布石で、後に、その意味がわかるのです。ですから、私たちは、右往左往せずに、信頼をしていきましょう。「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう。」(ヨハネ13:7)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2016年09月11日 | 天のマナ
「人は何によって動くのか」

 米沢の田中信生牧師が、「心のおしゃれの三カ条」という講演をいたしました。その中で、次のようなお話をされました。人は何によって動くのでしょうか。昔は、人は権威によって動きました。「お父さんのいう事を聞けないのか、先生のいう事が聞けないのか」と。しかし、今は権威によっては動きません。少し前までは、人は欲望によって動きました。「社長、残業ないか」って。しかし、今の若い人はこう言います。「社長、早く家に帰らせてくれ」って。では、人は何によって動くのでしょうか。それは、「人は喜びによって動く」というのです。喜んでいる人の所へ、人は集まって来るというのです。「何を楽しんでいるの?」と。そして「一緒に自分も喜びたい」と。喜びは人を巻き込んでいくのです。
 クリスチャンの性質は「喜び」です。「いつも喜んでいなさい」「主にあって喜びなさい」と聖書も語っています。救われた喜び、愛されている喜び、赦されている喜び、主イエスが共にいて下さる喜び、主が最善に導いて下さる喜び、勝利が与えられている喜び、神の子とされている喜び、永遠の命をいただいている喜びをクリスチャンである私たちは持っています。主にあって喜んでいますか?笑っていますか?明るい表情こそは、クリスチャンにふさわしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2016年09月04日 | 天のマナ
「人の構造」
 
 人は霊(ヘブル語:ルーアㇵ、ギリシャ語:プニューマ)、心(へ:ネフェシュ、ギ:プシュケー)、からだ(ギ:ソーマ)または肉(へ:バーサール、ギ:サルクス)で構成されている。これらは関連性がある一方また独自の意味を持っている。「心」とは、人の個性、内なるいのちまた良心を表す時に用いられる。「からだ」は、人の生命に影響を与える歴史的外面的関係を強調する時に用いられる。また人は神の霊と人格的関係を持つ「霊」的な存在である。そしてこの霊は心とからだとの間に深いつながりを持っており、霊が神から離れた時、肉体も心も神の前で罪深いものとなったのである。(「新聖書辞典:人の構造」よりいのちのことば社)。主イエスの救いを受けた者は、罪が赦され神との関係が回復されたのです。ですから、霊も心もからだも主に喜ばれるものとしての歩みをいたしましょう。
 「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい(心)、からだが完全に守られるように。」(新改訳:第Ⅰテサロニケ5:23)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする