静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2017年01月29日 | 天のマナ
「主権者なる神」
  
 昨年、礼拝の御用をして下さった講師の先生に、「もっとこうすれば、もっとああ言えば、他の優秀な牧師さんなら、人は救わるのに」と自責の念に駆られながら話しました。すると先生は、「人を救うのは主権者なる神の業である」と語られ、軌道修正して下さいました。神の国に入れることも主権者なる神の業であります。イエスを救い主と信じる者は救われ、永遠のいのち(神との関係が回復し神の永遠のいのちが流れ込んでいる)を受け、神の国に入れていただけると聖書は語ります。
 では、福音を聞きながらも、私達が知り得る範囲で信じていなかった方々はどうでしょうか。救われていなく神の国に行けないのでしょうか。これは、私たちにはわかりません。なぜなら、その方の24時間、そして一生の日々の心の思いを全て知り得ず、行動を全てを見ていないからです。また、そのことは、私たち人間が決めることではないからです。神を信じる祈りを私たちの知らないところでしていたかもしれません。全てを知り得る神が、主権をもってそれを決めることです。私達が背負うべきことでないことを背負い自責することは、越権行為であり高慢であります。また、その天に召された方を憐れんだり、神に対し失望することも間違いです。

「なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかるか。また夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるか。」(第一コリント7:16)。信仰者のすることは、生きている間に伝えることであり、天に召されたならば神に信頼し委ねることであります。
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天のマナ

2017年01月22日 | 天のマナ
「分かち合いの恵み」

 新年の合同セル・グループが、ある姉宅にてもたれ19名が参加し、主の豊かな恵みをいただきました。まずは霊の糧の分かち合いでした。それぞれが2~3分で、今年与えられたみ言葉や心にあるみ言葉を読み、今年への思いを語りました。私も、兄姉が読まれるみ言葉を、今ここでイエス様が私に語っておられる言葉として受け止め、豊かな主の恵みを受けました。また、それぞれの今年への思いも様々で、「それは楽しそう」と微笑んだり、「なるほど」と感心したり、「いいですね」と共感したりしました。今年一年、主が私たちの想像を越える主の恵みを与えて下さることを感じました。続いて肉の糧をいただきました。持ち寄りで持ってきて下さったおいしい食事が並べられいただきました。主イエスは、当時の反対者から「大食い」と揶揄(からかう、嘲弄)されるくらい、共に食事をされました。人がリラックスし心を開く食事を、良き伝道の時とされたのです。
「共に喜び、共に泣く」、主にある共同体であり、神の家族であることをおぼえました。
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天のマナ

2017年01月15日 | 天のマナ
 「憐みに富む神」(新年聖会の恵み)

 9日(月)の教区の新年聖会において、講師師を通して、主なる神より、み言葉の深さによる主のきよめの恵みをいただきました。創世記1~4章より、今までこの出来事の意味は?聖句にあらわされている神の御心は?と思っていたところが解き明かされ、神の憐みの深さをさらに知り信じることができました。
 
 その一つを上げるなら、神の言葉に従わず罪を犯したアダムとエバがエデンの園を追放されます。そして再びエデンの園に入らないように、命の木からも取って食べ、永久に生きないように、回る炎のつるぎと神の使いを置きます(3:22~24)。なぜ、このことを神はなしたのか。一つは、罪を犯し罪をもったままで永久に生きないようにとの憐みです。もし、罪をもったまま永久に生きること、それは地獄です。神は、後に送るイエス・キリストによる救い(赦し、義とされ、神の子とされる)を受けて永久に生きることを望まれたのです。そして、「追い出して」(23)は、「派遣し」という意味があるのです。エデンの園にあり続けるのではなく、全世界に満ちて自然界を管理するという神からの使命を果たさせる為です。なんと神は、憐みに富む方なのでしょうか。

2017.1.15
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天のマナ

2017年01月08日 | 天のマナ
「神が共にいて下さる幸い」

 ある兄弟から、「折々のことば」(鷲田清一)と題した2016年12月25日の新聞の切り抜きをいただきました。その記事は以下のものです。
 God be with you till we meet again(讃美歌405番)
「神ともにいまして」という題で知られる讃美歌。「また会う日まで、また会う日まで、神のまもり、汝が身を離れざれ」とくり返される。日本では教会で葬儀のときによく歌われる。送別の歌なのに長調なのが不思議だったが、悲しみの淵に沈む人をささえられるのは、信仰と希望と連帯だからだろう。英語のGoodbyeはこのGod be with youが縮まったもので、God b’w’yとも書かれたという。


「さようなら」「お元気で」「御達者で」などいろいろな別れの言葉がありますが、「神が共におられますように」という言葉と思いはなんと幸いでしょうか。

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天のマナ

2017年01月01日 | 天のマナ
「ウッドローン」映画シリーズ⑤

 1973年、黒人に対する差別があるアメリカ、アラバマ州ウッドローン高校でのある出来事が映画されたものを観ました。これは実話に基づいた映画です。この高校は黒人と白人が共学していましたが、学校内でも争いがあり、アメリカンフットボールのチームでも人種差別が絶えませんでした。その中に一人の伝道者が訪れ、チームのメンバーに語りかけ、聖霊の御業がなされます。チーム全員、監督までもが神を信じ和解して一つとなっていくのです。チームの為、勝利の為以上に神の栄光の為に試合をしていきます。ライバルチームの監督もコーチも選手までも救われて、合同合宿をしていきます。
大きな大会にウッドローン高校とそのライバルチームが決勝であたります。4万人のスタジアムは満ち、2万人が入れない状況、高校生の試合とは思えないほどです。試合前に伝道者が「主の祈り」を始めますが、途中でマイクが切られます。しかし、スタジアムの観客が主の祈りを続け、人種差別を乗り越え、チーム、そして観客も一つとなって試合が始められていくのです。この続きは映画をご覧ください。

 「それは、彼(イエス)にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つものを一つのからだとして神に和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:15~16)
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