静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2012年02月26日 | 説教要約

「神にはできないことはない」 マタイによる福音書19章23~30節

 「真の愛は能動的である」と言われます。言葉をかえるならば、「~しない」ではなく「~する」であります。裕福な青年は、財を貧しい人に施すことができなかった、「~する」という愛ではなかったのです。また、神を拠り所とせず、財を拠り所にしていたのでした。

Ⅰ 主イエスに変えられる者

 そこで主イエスは、富んでいる者が自分で天国に入るのは不可能だと言われました。人間は富(見える一時的な限りがあるものの代表)に依存してしまう弱さがあるからです。見える物が見えないもの(永遠の神の世界)を見えなくしてしまうからです。では富ある者は天国に入れないのでしょうか?いいえ、神にはできないことはないとも主イエスは言われました。それは神によってできるのです。神は人を変えることができるのです。一時的な表面的現象の世界から、霊的な永遠の世界に目を向けさせることができるのは神だけであります。

Ⅱ 主イエスに従う者

 弟子たちは主イエスに私たちはいっさいを捨てて主に従った者達で、何をくださいますかと聞きました。主イエスは、わたしのために福音のためにささげ従った者たち、神を拠り所とし天に宝を積んだ者たちには、永遠のいのを与え、この世でも幾倍もの祝福を受けると言われました。

 私たちは何に目を注いでいるでしょうか。見える一時的な表面的なものではなく、本質である永遠の神の世界に目を向けて、この地上を歩んでいこうではありませんか。

2012/2/26 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年02月26日 | 天のマナ

 「誰が自分の価値を決めるのか?」   「あなたはわが目に尊い」(イザヤ43:4)

 

先日、クリスチャン新聞福音版2月号に掲載されてある、オペラ歌手加藤愛さんの証しを読みました。そのタイトルに目が釘付けになりました。「自分で自分の価値を決めることをやめた」とありました。高い声が願うように出ない自分に対して自分を駄目だと思い、自分の本来の声の領域でないものに固執し、無用な足かせをかけていた彼女、その証しの中で、「あなた自身がすでに神の素晴らしい作品であり、神様が創られた『作品』を『価値がない』と決めるのは大きな罪です。」と聞いて、自分で自分の価値を勝手に決めようと躍起になっていたことに気づかされ、それ以来、自分を責めることをやめたというのです。自分を責めることは、私を創ってくださった神様を責めることになることもわかりました。そして、今ある自分が神様から与えられている自分であると心の底から思えるようになり、神様が私をそのように創られたのですから、その中でベストを尽くそうと今歩んでおられます。

 

2012/2/26

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講壇の花

2012年02月26日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年02月19日 | 説教要約

「あなたを支える神」 詩篇55篇16~23節

  あなたにとっての重荷とは何でしょうか?22節の「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」の御言葉を中心にメッセージを取り次ぎます。

Ⅰ 信仰者の葛藤

 ダビデの息子アブシャロム、ダビデの有能な議官アヒトペルが、ダビデを裏切った時がこの詩の背景ではないかと言われています。13、14、20節からそういうことができるでしょう。ダビデは、はなはだ恐れに覆われ、悩み弱り果て、気が狂いそうになっていると告白しています。この状況から、鳩のように翼をもって飛び去りたい、遠くへ逃れたいとの逃避の思いも語っています。しかし、その逃避は他ではなく神への逃亡であり、主なる神の介入を願い、敵に対しては彼らの謀を破ってくださり、自分に対しては救いとなしてくださいというものでした。信仰者の葛藤の中にも、神への信頼を見い出します。

Ⅱ 信仰者を支える神

 信仰者の叫びに対して神は、22節の言葉を語りそれを体験させ、体験した信仰者を通してこの言葉を他の信仰者へ語らしめなさいました。まず彼が、この御言葉を体験したのです。彼の重荷をゆだねたのです。「ゆだねる」とは投げるということです。彼は葛藤を神に投げた時、神が共に重荷を負って支えてくださっていることを体験したのです。変わらない状況の中でも、神との関係がまっすぐな者が決して動かされることがなく、平安の内に乗り越えることを経験したのです。

 主なる神に重荷をゆだねましょう。神はあなたを支えてくださっていることを知りましょう。ゆだねるのは私たちの分、心配するのは神の分ですから。(Ⅰペテロ5:7)

2012/2/19 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年02月19日 | 教会案内

「閉塞感を打ち破る」    「勝ち得て余りがある。」(ローマ8:37)

 

 社会全体に閉塞感があると言われる今の時代であります。人々は新しい風を求め、カリスマ的な指導者について行こうとします。時代によっては、力強い指導者が社会を活性化させる働きをする時もありますが、人は不完全であり謙らなければ、脱線する可能性もあります。

 

キリスト教界にも、各教会にも閉塞を感じると言われています。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。カリスマ的な指導者の台頭を期待するのでしょうか。いいえ、私たちは主に期待するのです。主の前に熱心に祈り、一人一人が聖霊の満たしを受けることが何より必要です。主イエスは、クリスチャン一人一人を用いたくて仕方がありません。主の御業を進めたくて仕方がありません。主イエスの御心にかなう器を求めているのです。ですから、御心にかなう器とは、主の前に出て熱心に祈り、聖霊に満たされているクリスチャン一人一人です。主イエスは、閉塞というものを打ち壊して、主の御業をますます進めてくださるからです。

 

2012/2/19

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講壇の花

2012年02月19日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年02月12日 | 説教要約

「結婚の祝福」 マタイによる福音書19章3~12節

 主イエスの許に来た人たちは様々でした。ここでは主イエスを試みためにパリサイ人達が近づいて質問をしました。

Ⅰ 神による結婚の制定

 「離婚」についての彼らの問いに、まず主イエスは「結婚とは何か」という根本的な答えをいたしました。結婚は神によって制定されたもので、神の人間に対する祝福であり、聖なるものであり重んじるべきことであります。神の召しにより二人は父と母とを離れ結婚によって一体(一心同体)となるのです。夫婦は対等で向き合うパートナーとしてあり、家庭を築き、お互いの人格が円熟され、子孫を与えらることなどを通して神の栄光をあらわすのです。

Ⅱ 神にある結婚への召し

 それほど重んじるべきならば、なぜモーセは律法の中で、妻を出す場合には離縁状を渡せと定めたのかとパリサイ人達は続いて問いました。主イエスは、人の罪ゆえに結婚関係夫婦関係が壊されてしまい、神が定められた結婚状態に留まれない、実質を伴わない不自然な結婚関係に対してやむを得ずゆるしたのであり、初めからそうでなかったと語りました。そらに、主イエスは不品行(聖なる夫婦の一体を壊す行為)のゆえ以外の些細なことですぐに離縁状を渡そうとするその当時の流れに対して釘を刺したのであります。

 そんなに夫の立場が弱いのでしたら、結婚しない方が良いと言われた者に対しては、結婚に対しても召しがあるように、独身に対しても召しがあると言われました。

 神の愛に支えられ、結婚に召されても独身に召されても、神の栄光をあらわしていきましょう。

2012・2・12 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年02月12日 | 天のマナ

「救われている者から溢れる恵み」 

 

夫や妻が未信者だと神様の祝福はどうなのかについて、東栄福音キリスト教会遠藤稔牧師は次のように言われています。 

まだ神様を知らない未信者の妻や夫は、クリスチャンの相手によって聖められている、と聖書は言っています(Ⅰコリ7:14)。これは、神様からの良いものを共に受けている、という意味です。だからクリスチャンの人は、未信者の夫や妻と一緒に生活し、相手に仕えるべきです。それが、たとえ、みことばに従わない相手であっても、そうしなさい、と聖書はいいます。なぜなら、御霊をもっている人らしい無言のふるまいや、神様を恐れかしこむ姿によって、相手が神様のものとされるためです。(Ⅰペテ3:1-4,Ⅰコリ7:10-17)だから、相手がどうであっても祝福はあります。未信者の相手や子どもはクリスチャンによって祝福されていることを聖書はハッキリと教えています。「そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(Ⅰコリ7:14) 私たちは家族に祝福を与えるために召されたのです。(Ⅰペテ3:9)

 

私は次のことを一つ加えさせていただければと思います。夫や妻の救いを祈っている祈りに神は答え、夫や妻を救ってくださるに違いありません。

 

2012/2/12

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講壇の花

2012年02月12日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年02月05日 | 説教要約

「すべての悩みから救う神」 詩篇54篇1~7節

 第一サムエル記23章19~あるように、ダビデは、サウル王の手から逃れていましたが、ジフの荒野ホレシにいた時、ジブの町の人たちがサウルに密告したので、急転直下、窮地に立たされるのです。その時に詩われたのが、この詩篇54篇であります。その信仰告白の祈りを聞かしていただきましょう。

Ⅰ 神への叫ぶ者

 ダビデはこの時、「神よ」と神に叫びました。あれこれと動くのではなく、「私の祈りを聞き、私の言葉に耳を傾けてほしい」と神に訴えたのです。結局、神の前に出ないと進んでいかない出来事があるのです。その叫びの内容は、「救いください、裁いてください」であります。神の圧倒的な権威(神の御名、神の力)を取り上げ、神のご介入を願っているのです。それは、神が救ってくださり、神が救うことができる方であると神の権威を認めている叫びです。

Ⅱ 神を前に置く者

 高ぶる者のジフの町の人たち、あらぶる者であるサウルとその兵士達は、神のみ心から離れ神を恐れず、彼らは自分の前に神を置かない者たちでありましたが、ダビデは神を常に目の前に置き、神を通してすべての現実を見ていたのです。人生のあらゆる領域において、神の愛と恵の支配を認め、敵に対する裁きを神にゆだねていました。それだけではなく、この詩の後半には、信仰により勝利を先取りし、神をほめたたえています。そのようなダビデを不思議な方法をもって神は守られたのです。

 神への叫びをする者、神を前に置く者を、神はすべての悩みから救うのであります。私たちも、この信仰を持たせていただきましょう。

2012/2/5 説教者 杉本守

 

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