静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2015年02月22日 | 説教要約
「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」 詩篇116篇1~19節

「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(15)

 神の救いを経験した者の感謝が詠われています。前半は、死に直面する苦しみから救われた感謝を、後半は、救って下さった神に従っていく思いを詠っています。
 本日は、15節の御言葉を主に取り上げたいます。

Ⅰ 主の聖徒たちの死
 「聖徒」と聞きますと、皆から尊敬を受けている方や信仰的功績を残した方と思ってしましますが、神を愛する者、神を愛される者こそ、主の聖徒であります。新共同訳では、「主の慈しみに生きる者」と訳されています。主の慈しみの中にあって、神に愛され、そして神を愛して日々生きているすべての人を意味します。その者達も、肉体の死が来ます。体は土に霊は神に帰るのです。

Ⅱ 主の聖徒たちの死が尊い理由
 では、なぜその者たちの死は尊いのでしょうか。ここでは「そのみ前(主のみ前)」、「主の目に」(新改訳)はとあります。人の目には、功績を残せた者が尊いということでしょう。しかし、人の目は一時で一面しか見えません。しかし、神の目には、その人のすべてが見られています。主の聖徒の死は、主の目には、使命を果たし終えた姿として、永遠の神の国に凱旋する姿として映っているのです。だから尊いのです。私たちも主の目を通してみさせていただきたいのです。

 私たちも主を愛し主に愛されている主の聖徒として、この地上での使命を全うし、神の国へ凱旋させていただきましょう。

2015・2・22 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年02月22日 | 天のマナ
「命あるものは成長・成熟を望む」 

 「成長したくない」・・・「小学生になりたくない、幼稚園生のままでいい」「大人になりたくない、子供のままでいい」「働くのは嫌だ、学生のままでいい」。

 あるいは、「成熟したくない」・・・「甘く熟したくない、青いままで結構」。

 これでは本人も家族も充実しているはずがありません。命あるものは成長・成熟を望むのが健全です。健全である時に平安があり喜びがあります。そうでないならばどこか不健全で輝けないでしょう。

 私たちクリスチャンは、主イエスを救い主と信じ告白した時、主イエスによって、生まれ変わらせていただきました。霊的に死んでいた者が、神との関係が回復し、新しい霊的命、永遠の命をいただき生まれ生かされたのです。ですから霊的な赤ちゃんから、成長し大人となり、さらには成熟していくことが必要であり、それは本人にとっても神の家族にとっても喜びであり健全な信仰と言えるでしょう。
 
 では霊的な成長・成熟していくためにはどうしたらよいのでしょうか。霊的な糧である聖書を読み、祈り、礼拝をささげ、奉仕をし、捧げものをささげ、伝道することです。これらなしには成長・成熟はありません。先週の個人伝道の学びの最後に、二人一組で個人伝道の実践をしました。どのペアーも福音を伝える喜びと充実さを体験しました。人と比べる必要はありません。自分のペースでよいのです。主を見上げて、成して行く時に、主は確実に成長・成熟させて下さるのです。「成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:6)

2015/2/22
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主日礼拝説教要約

2015年02月15日 | 説教要約
 「わたしが神に祈るのは」(使徒行伝26章24~32節)

 「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけではなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみなわたしのようになって下さることです。」(29)

 ローマの総督がフェストに交代し、パウロはカイサルに上訴いたします。そんな時にヘロデ・アグリッパ王二世の前で、パウロは自らの救いの証しを含めて、福音を語ります。

Ⅰ 福音を語る備え
 パウロは、いついかなる時も、誰の前であっても、総督や議会、そして王の前であっても、いつも福音を語る準備をしていました。まさしく、ギデオンの300人のように、備えていたのです。そして、自らの救いの証を、救われる前、救われた時、救われた後と3ポイントに明快に語っています。

Ⅱ 祈りによる宣教
 福音を語られる時、それに聞く者は御言葉に迫られ、決断を求められます。アグリッパ王は、この救いの時、決断を避けることによって、逃してしまいました。残念なことです。
 一方パウロの祈りの中での願いは、上記の御言葉にあるように、自らの解放ではなく、福音を伝え一人でも多くの者がイエスによって救われるようにとの使命を果たすことでした。


 私たちの祈り、願いは何でありますでしょうか。己のことでしょうか? パウロのようにいつも救霊のために祈り、いつでも福音を語れる備えをさせていただきましょう。神は備えている者に必ずチャンスを与えてくださるからです。

2015/2/15 説教者 杉本守
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天のマナ

2015年02月15日 | 天のマナ
 「神の栄光があらわれる」

 先週の祈祷会の恵みの分かち合いにて、二人の姉妹が異教の葬儀において、クリスチャンとして行動する苦労を話されました。異教の地である日本、神はそこにクリスチャンである私たちを置かれ生かしています。私たちは、この世にてどのように行動をすればよいのか葛藤をいたします。
 以前にも記させていただきましたが、クリスチャンが行動する基準は、「神の栄光があらわされる」です。それをすることで神の栄光をあらされるのか、否かで判断するということです。神の栄光があらわされるならするし、そうでないならばしないです。
 この基準を土台に、さまざまな状況の中で、あとはそれぞれの信仰の判断に任されています。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第一の手紙10章31節)

2015/2/15
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主日礼拝説教要約

2015年02月08日 | 説教要約
 「天地を造られた神の恵み」 詩篇115篇1~18節 

「天地を造られた主によって、あなたがたが恵まれるように。」(5)

 この詩篇は、真の神とは偶像の神ではなく、天地を造られた神であることを告白しているものです。
人間は目に見える世界に引き寄せられていきます。そのゆえに一番大切なものを見失うのです。
己の願いや欲をかなえるために考え出された神々を、人は金や銀や白金で見える像にしたて刻み込みます。
眩いばかりの偶像です。しかし、どんなに大きくても眩くても、人の手で造られた偶像は、語れず、見ることができず、聞くこともできず、歩くこともできないのです。命がないかたちだけの飾り物だからです。それらの偶像の神々を造り信頼する者らは、偶像に等しくなるとあります。
 しかし、聖書の神は、天地を造られた神であり、神を恐れる者を守られ恵まれる生きた神であります。そして、神ご自身のみ心を行われています。この真の神を信じる者は、この神に似せられてくるのです。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」(Ⅱコリント3章18節)のです。

2015・2・8 説教者 杉本守

  
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天のマナ

2015年02月08日 | 天のマナ
 「命の尊さ」
 
 世界ではいつの時代も、国々が対立しあう戦争や民族らの紛争が繰り返され、暴力によって平和と秩序が脅かされ、虐殺や殺人によって尊い命が奪われています。この日本においても繰り返し事件が起きて命が奪われ、私たちは心を痛めています。学校では年少時代より、「命の尊さ」を教える授業がなされています。
 「命の尊さ」は、どこから来るのでしょうか。それは、「命は神のものであり神のみ手の中にある」というところからです。「命」は人間のものでも自分のものでもありません。神のもので私たち人間は神から預けられ、生かされている者です。だから、良き管理者として健康に生き神からの使命を果たすのであります。他者の命は、神がその人に預けている尊い命であるので、殺人をしてその命をとってはいけまません。また、自分の命も、神が自分に預けている尊い命なので、自殺をして自分の命を自分でとってはいけません。命は神の領域で人間は手を出してはいけない尊いものなのです。
 その人が神に与えられた使命を果たした最善の時、神がその人の命をとられるのです。時には災害や事故で、私たちの考えを越えたことが起こります。地上で生きるひと時の私たちには理解できませんが、やがて神の国で主イエスの前に立った時に、「ああ、そうだったのか」とわかる日が来るに違いありません。   
 
「主が与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(新改訳ヨブ1:21)

2015/2/8
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講壇の花

2015年02月08日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2015年02月01日 | 説教要約
「揺り動かされない人生」 使徒行伝24章10~27節

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(28)

 大祭司アナニヤや長老らは、総督ペリクスにパウロを訴え論告します。続いてパウロが答弁します。この個所から主の言葉をいただきましょう。

 パウロは自分について、良い一市民であり、良い一信仰者であり、神に対しても人に対しても良心に責められることのないようにつとめてきたと語り、復活の主イエスを信じている信仰を表明いたします。それを聞いたペリクスは、裁判を延期しパウロを監禁しました。寛大に扱われましたが、なんと二年間も続きました。パウロの気持ちはローマに向けられていましたが、ここで足止めをされます。歯がゆい気持ちを抑えながら、パウロは神の時を待ち、そこでできることをなしていきました。教会へ手紙を書いたり、深遠な神学体系を整えたことでしょう。

 人間的には、業が進んでないように見えるような時も、神の御業は着実に進んでいるのです。とんとん拍子に行かないときも、主の御言葉に立ち、揺り動かされない人生を送っていきましょう。

2015/2/1 説教者 杉本守


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天のマナ

2015年02月01日 | 天のマナ
 「6までではなく7まで」

 聖書の数字はとても興味深いと思います。特に「3」「7」「12」や「4」「40」「70」などであります。ここでは「7」に目を止めてみたいのです。天地創造は7日です。神の民は主の言葉に従いエリコの町を7日間、7日目には7回巡り叫んだ時に、エリコの町の城壁は崩れました。重い皮膚病だったスリヤのナアマン将軍は、エリシャを通して語られた主の言葉に従い、7回ヨルダン川に浸り癒されました。数年雨がなかった時、雨を降らせて下さるとの主の言葉を受けたエリヤは、カルメル山でしもべに7回海の方を見させた時に、人の手ほどの小さな雲を見つけ、大雨が降ってきました。もちろん、「7」を絶対化、律法化、偶像化するわけではありませんが、2度や3度、5度や6度で状況が変わらないのを見てあきらめずに、信じて最後まで神に心を向け続けるということではないでしょうか。24日の早天祈祷会で、上記のエリシャの箇所から示されました。7度主の前に出ることを。
 その次の週に2つの大きな課題がありましたので、それぞれ7つの場所で祈り備えました。牧師室で、祈祷室で、玄関で、寝室で、キッチンで、チャペルの席で、講壇で、日常の動きを止めて、神の御前に静まりひざまずき祈りました。主は幸いな御業を見せて下さいました。

2015/2/1 
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