静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2012年03月25日 | 天のマナ

 「神の臨在の幸い」  

 ジョン・ウエスレーは88才で召されましたが、その召される前に「何よりも良いことは、神が共にいて下さったことだ」といいました。日々の歩みの中で「臨在信仰」をもっていた彼でした。出エジプトをした神の民が、なぜあのような荒野で40年も生活することができたのでしょうか。水も食べ物もない、植物も生えていない乾燥した地です。それは、神の臨在が彼らのうちにあったからです。彼らは、神が天からくださるマナやうずら、岩からの水という神が共にいます恵みを受け続けたのです。

 神が共にいてくださるキリスト者はなんと幸いでしょうか。主の臨在に敏感であらせていただきたいのです。たとえどんな人生の荒野を通ったとしても、神の恵みが溢れそこを進ませてくださり、神はキリスト者を約束の神の国へ導いてくださるからです。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:20)

2012.3.25

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主日礼拝説教要約

2012年03月25日 | 説教要約

「神のみ心のままに」 マタイによる福音書26章36~46節

 十字架の前の晩、最後の晩餐を終えた主イエスと弟子たちはゲッセマネの園へ、そこでの主イエスの祈りからみ言葉をいただきましょう。

Ⅰ 主イエスの率直な思い

 どんな嵐にも恐れることはなく、どんな悪魔の誘惑の攻めにも動じることがなく、ひと言でしずめ追いやった主イエスが、この夜の祈りで恐れおののき、悲しみのあまり死ぬほどであると語っているのです。それは罪のない方が、人類の罪を負うこと、神に捨てられること、罪にのぞむ神の裁きを受けることの本当の内容をしっていたからであります。私たち人間には想像もできないことです。ですからこの十字架をできることなら避けたいと祈りをささげたのは、主イエスの率直な思いでした。

Ⅱ 主イエスのさらに深い思い

 主イエスは自らの率直な思いを何度も、父なる神にさまに訴えました。その上で、父なる神様のみこころのままになしてくださいと祈ったのです。「神のみころろのままに」という祈りは、神との必死のやり取りの中でうまれくる祈りであるのです。そうであるから、主イエスはこの祈りの後、「十字架によってのみ人の救いがなされる」と確信をもって、十字架へまっしぐらに進まれたのです。

 ゲッセマネの祈りをささげた主イエスに、ただただ感謝します。父なる神のみこころにただに従った主イエスに感謝をするのです。

2012/3/25 説教者 杉本守

 

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講壇の花

2012年03月25日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年03月18日 | 説教要約

「互いに愛し合いなさい」 マタイによる福音書26章26~29節

 新来会者の方々が多く集われていますので、伝道メッセージを語るように導かれています。

Ⅰ 救いにあずかる

 人生という旅の中で、重荷は何でしょうか?人間関係、事業、病気などそれぞれ違うかもしれません。しかし、どの時代、そして全世界の誰でもが持っている重荷があります。それは一番重いものであり、それは罪と死の問題です。主イエスはこの重荷を負ってくださり、罪を赦し、永遠の命を与えて救ってくださるのです。主イエスは救い主としてそのために来たのですから。

Ⅱ 神の国へ入る

 主イエスによる救いを受けた者は、肉体の死がきたらどうなるのでしょうか。肉体は土に帰り墓へ、霊は神の懐、神の国の庭(パラダイス)で憩うのです。そして主イエスの再臨の時に、憩いから覚め、永遠の栄光の体をいただき、神の国の門が開かれ神の国に入るのです。決して修行をしたり無になるのではありません。

 なんと幸いでしょうか。信じる者に主イエスは、十字架と復活によってこの救いを与えられているのです。最後の晩餐での、パンと杯はそのことの新しい契約であり、聖餐式において私たちはその恵みにあずかり続け確認していくのです。

 2012/3/18 説教者 杉本守

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天のマナ

2012年03月18日 | 天のマナ

 「十字架による以外に救いはなし」

 どの時代にもどの世界の国でも、人々は神を求めています。創造者なる真の神を知らず認めない人達は、自分の願いをかなえる為に、自分の考えにあった神々(偶像)を作り出します。ある人は、自然を神としたり、過去の偉人を神としたり、空想の理想像を神とします。動物さえも神として祭られています。また、無神論ということを主張する人であっても、実は自分を神としているのです。また、人々は救いを求めています。神のひとり子である救い主イエス・キリストが、全人類を罪と永遠の滅びに対して、十字架と復活によって人の救いをなした福音を知らない人達は、福音のかわりに他のものによって救いを得ようとします。それは多くの場合、人間の行いによる自力救済であります。善行や修行、イデオロギーやヒューマニズムなどであります。これらのものは、人間的な助け合い、慰めや励まし、鍛錬などには有益なことかもしれませんが、全ての人が抱える罪と罪の結果である永遠の滅びの解決とはなりません。これらからの救いは、イエス・キリストの福音しかないのです。 

 「この人(イエス)による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)

2012/3/18

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講壇の花

2012年03月18日 | 生花
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天のマナ

2012年03月11日 | 天のマナ

 「キリスト者の戦い」

 私たちキリスト者の戦いは、誰に対する戦いでしょうか?何に対する戦いでしょうか?国家、民族、人との戦いではありません。私たちの戦いは信仰の戦い霊の戦いであり、サタンとその手下の悪霊達に対する戦いで、罪と世俗、不信仰に対する戦いであります。サタンの攻撃は激しく、それは関係を壊す戦法です。サタンは、神と人の関係を壊し、人と人との関係を壊しにかかります。神に対する不信仰と不信頼を起こさせ、人への恨み妬み憎しみを沸き立たせようとするのです。

 私たちキリスト者は、どのようにしてサタンの攻撃に勝利することができるのでしょうか。エペソ6章10節~20節によると、「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」とあります。神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えを足にはき、信仰の盾、救いの兜、御霊の剣、神の言、御霊によっての祈りであります。準備はできていますか。遣わされていきましょう。

2012/3/11

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主日礼拝説教要約

2012年03月11日 | 説教要約

「悔い改める者を赦す神」  マタイによる福音書26章31~35節

 受難節に入るこの日、裏切っていく弟子達に対する主イエスの愛をみていきましょう。

Ⅰ 裏切った弟子達

 弟子を代表するペテロ、そしてイスカリオテのユダらの弟子たちは、主イエスを裏切りました。ペテロもユダも同じく自分の罪を認め悔いたのです。しかし、二人のその後が違いました。ユダは自殺し、ペテロは赦され新たに使命をいただき用いられていきます。それは、負いきれない罪と罪過を認めながらもユダは主イエスにゆだねなかったのです。しかし、ペテロは主イエスに罪と罪過をゆだねたのです。主イエスに負っていただいたのです。どんなに後悔しても、あるいは善行や修行をしても人間には罪の解決はなく、自己救済もないのです。救い主イエスによる救いをいただくしかありません。

Ⅱ 悔い改めた者への神の恵み

 神に前に再び出たペテロ、悔いるだけれはなく、罪を主イエスにゆだね神に立ち返った彼に対して、主イエスは彼の罪を負い、彼を赦し立ち上がらせ、再召命を与えたのであります。ペテロは生涯をかけて主イエスの救いを伝える者とされたのです。

 自分の罪を認め、悔いたならば、自分で負うとせず、主イエスに負っていただきましょう。そして方向転換をし、主の恵みの中で歩んでいきましょう。

 2012/3/11 説教者 杉本守

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講壇の花

2012年03月11日 | 生花
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主日礼拝説教要約

2012年03月04日 | 天のマナ

「主イエスのお心を知る」 マタイによる福音書26章1~13節

 受難節、復活際を迎えるにあたり、マタイによる26章以下から共にみ言葉をいただきましょう。この箇所はマルコにもヨハネにも記されています。主イエスは、十字架にかかられる直前にベタニアの街にあるシモンの家の食卓に着かれました。

Ⅰ 主イエスの言葉を受け止めた者

 このシモンの家に、マルタ、マリヤ、ラザロの三姉弟が来ていて、主イエスをもてなしています。一人の女性(ラザロの姉マリヤ)は、。純粋なナルドの香油を主イエスの頭から足へ注ぎます。それは非常に高価で彼女が大切にしていたもので、300デナリするものでありました。弟子たちは、無駄遣いであり貧しい人に分け与えるべきだったとマリヤを責め立てます。なぜ、マリヤはこのことをしたのでしょうか。一つは、弟ラザロを生き返らせてくださった感謝でありましょう。もう一つは、打算を越えた主イエスへの純粋な愛であり、愛する主イエスが十字架にかかるとおっしゃった言葉をしっかえりと受け止めたからであります。自分のメシヤ観に主イエスを詰め込もうとするのではなく、人類の救いのために受難(十字架)を受ける主イエスのそのままの姿を受け止めたのであります。

Ⅱ 主イエスの願いを行った者

 彼女の関心は自分がどうこうではなく、主イエスがどういう状況にあり、何を願っているかというものでもありました。ですから弟子たちの悪評の中にも無言で主に仕えたのです。主イエスが十字架にかかられて死なれることに彼女は寄り添い、それでは葬りの用意が必要であるとこの機を逃さず、香油を注いだのでありました。それに対して主イエスは、彼女の思いと行為を喜び賞賛されました。彼女は、この時しかない機を逃さず、できる限りのことをしたのですから。

 私たちがささげる奉仕はどうでしょうか?いつかそのうちで機を逃したり、あまったものをささげるのであったりしていないでしょうか? マリヤのように主イエスのお心を知り、それにかなうささげ方をしていくとき、香油は満ちていくのです。

2012/3/4 説教者 杉本守

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