静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2023年08月27日 | 天のマナ
 「迷いの時も大事に」(ユースジャムの恵み①)
 ユースジャム初日の夜、ジュニアユース(中高生)の集会のメッセージは、マタイによる福音書2章1~12節から「キリストのもとに招かれた人たち」という題で語られました。東方の博士たちは、神による輝く星に導かれ、宿にいた幼児である救い主に出会い拝したのです。遠方からのその道中は、厳しいものであり、時に迷い、ヘロデ王に「ユダヤ人の王(彼らの最大級の表現)としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と彼らは問いました。説教者はこの所から、「神様は迷いの時間をも大事にして下さる」と語られたのでした。「迷っている時間などないし、迷いはロスでしかない」と合理的な思考が強い私には、「迷う時も意味がある」という新鮮な主の恵みでした。「信仰の成長は直階段ではなく螺旋階段だ」とも言われますが、失敗する時、行き詰まる時、躓く時、痛む時こそ神様は私たちひとりひとりを大事にしてくださっているのです。「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟(おきて)を学ぶためでした。」(詩編119篇71節)。
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天のマナ

2023年08月20日 | 天のマナ
「性差と性差別の違い」
 人間を造られた神の前に、人は平等であります。性別、年齢、人種、知性、財政、功績にかかわらず平等であります。ですから、「男尊女卑」などの「性差別」もあってはなりません。「性差別」はいけませんが、「性差」はあります。神は人を造られた時に、男と女に造られました。男女には身体の構造の違いを始め、知性、感性、動性の違い(性差)を与え造られました。神の秩序の中で、お互いを補う存在として造られたのですから、違うのは当然です。また、「この世界の秩序と平和が守られ、一人一人が平安をもって過ごせるように」と、男性には男性の役割を与え女性には女性の役割が与えられているのです。
 では、聖書は男女の役割を何といっているのでしょうか?テモテへの手紙一2章8~15節からの本日のメッセージに耳を傾けましょう。
「だから、私が望むのは、男は怒らず争わず、どこででも清い手を上げて祈ることです。」(8節)。「むしろ、善い行いで身を飾るのが、神を敬うと公言する女にふさわしいことです。」(10節)。
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天のマナ

2023年08月13日 | 天のマナ
「主イエスを間に置く」  
「夫婦喧嘩はしますか?親子喧嘩や兄弟喧嘩はいかがでしょう?」。ひとりでは喧嘩はでませんので、喧嘩をすることは共にいて人間関係をもっているということ、軽度の喧嘩(口論など)を、前向きに「人間関係の構築、さらにそれを深めるためのひとつの手段」と捉えることもできますが、感情をもつ人間にはなかなかそこでとどまらず、多方面にエスカレートしていきます。
 義母をお迎えして、私もキッチンに立つことが増えました。妻がほぼ料理するので、それほど私は料理はしませんが、毎食前後の配膳や皿洗いなどをいたします。今まで以上にキッチンでの時間を共にする私たちにとって、摩擦や行き違いが増え、チクリチクリとのやり取りが起こります。私は見た目はあまり気にせず機能的合理的な考で動きますが、妻は見た目も大切にします。料理したものをどの皿に盛りつけるのか妻は料理中に決まているようですが、私は盛り付けれればどの皿でもいいと考えます。妻は、余分のごみ袋(大)を四角い箱に入れきれいに棚に置きますが、私は満杯になった袋を取り出し、すぐに取り替えれるように、ゴミ箱の底にドバっといれておきたいのです。しかし、ある時からチクリチクリの回数が減って来ました。それは、ユーチューブでの賛美をBGMとして流してからです。日常の生活の中で、主イエスを夫婦の間に置いてからです。
 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」(新改訳2017 Ⅰコリント12:25)。
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ガンカフェ 始めます

2023年08月13日 | イベント案内
静岡ホーリネス教会グレース・チャペルでは、ガンカフェを始めます。
まず第一回目は、講師をお招きしての会です。
無料です。どなたでも是非おいで下さい。

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天のマナ

2023年08月06日 | 天のマナ
 「ごめんなさい、ゆるしてください」と言える幸い
 人は、自分の非(正しくないこと、あやまり、欠点)や失敗を認め、「ごめんなさい、ゆるしてください」となかなか言えない者です。年長者になると、親になると、社会的地位が高くなると名誉、プライド、権威が邪魔をして、さらに難しくなります。「ごめんなさい。ゆるしてくだい」と素直に言える人は、良き親をもった人でありましょう。これは小さい時に親から学ぶことです。子育ては子供と共に親も成長していきます。親も完全ではなく失敗をしながら、子供と歩むのです。そして失敗した時に、「ごめんね。ゆるしてね」と子供に言える親はなんて良い親でしょうか。また、そう言われる子供はなんて幸せな子供でしょうか。親の謝る姿を見て、子供も「謝ること、ゆるしゆるされること」を体験し体得していくのです。
 主イエス様は罪を一つも犯しませんでしたが、私たちの罪を負い、私たちの前に立ち、父なる神様の前に進み出て、あの十字架で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23章34節)と叫んで下さいました。この十字架を下に身を置き、この十字架を見上げる者は幸いです。「ごめんんさい。ゆるしてください」と言えるからです。
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