静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

主日礼拝説教要約

2014年08月31日 | 説教要約
「こころの貧しい人たちは幸いである」(マタイによる福音書5章1~3節)

「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」(3)

 今朝は伝道礼拝です。新しい方と求道者の方々を特に歓迎します。
 聖書はおもしろいことを言います。「心の貧しい人がさいわい」というのです。ここでの「貧しい」は、極貧です。その日の食べ物がなくて生きていけない状態です。ということは、自分の心には愛がなく自己中心で、罪深く、このままでは生きていけないという状態です。それを自分で認めているということです。
 自分を知り認めるということは一番難しいことです。しかし、それが救いの第一歩となります。なぜなら、そういう者は、神に救いを求めるからです。神は救いを求めてくるものをほっておきません。救いを与えるのです。ここでは「天国は彼らのものである」と言われています。天国は将来のことだけではなく、今のことでもあります。それは神の救いを得たものは、神とのあふれるいのちの関係が回復し、神の祝福が流れ込み、天国の幸いを先取りすることができるのです。なんて幸いでしょう!

 あなたも自分の心の貧しさを認め、主イエスを救い主と信じ、天国の祝福を先取りする者となってください。

2014/8/31 説教者 杉本守
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天のマナ

2014年08月31日 | 天のマナ
「み言葉に親しみ蓄える」

 先日の葬儀にて、故人が「枝」に投稿した文章を読ませていただきました。彼は毎年必ず自分の信仰を「枝」にて表明していました。
 彼は20歳の時、「ふぅーポン信者」(一週間聖書を開かず、日曜日の朝に聖書の上に溜まったホコリを吹いて軽くたたき落とすキリスト者)であってはいけないと思い、その時から毎年聖書を1回通読(創世記~黙示録まで読む)することを決心し、それ以来、45年間45回通読されてきました。今年も聖書の半分を過ぎた時に、主は彼を御傍に召されました。彼の信仰生涯は、御言葉に親しみ蓄えたものでした。

 私たちの心の器の容量(キャパシティ―)は、決まっているのではないでしょうか。朝起きて、心の中に何を入れるか、世の物を多く入れたら、み言葉の入る余地はありません。逆にみ言葉を読んで入れると心が満たされ平安をもち、不思議に世のものには興味が薄れてくるのです。世の中の依存からの脱却は、み言葉、賛美、祈りによる主イエスとの愛の交わりであります。「み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。」(詩篇119:25)

2014・8・31
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講壇の花

2014年08月31日 | 生花
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天のマナ

2014年08月24日 | 天のマナ
「祈りのバリア」    

 島田での教区の小学生キャンプ、大島の学生青年キャンプ、一人の兄の葬儀を通して、教えられたこと、主の恵みによって取り扱われたこと何回かのシリーズで分かちたいと願っています。
 
 大島のキャンプでの証しで、「祈りのバリア」ということを聞きました。牧師や兄弟姉妹に祈ってもらう、また自分で自分のために祈ると祈りのバリアが張られ、不思議に守られた経験を数人から聞きました。その日から、今まで以上にしっかり祈り、家族を始め名簿や祈祷課題を見ながら教会の兄弟姉妹から親戚の一人ひとりの名を必ずあげて祈っています。祈りのバリアを張るのです。聖書を読むことを合わせると1時間を越えます。その時間は私にとって、主イエス様と霊的、人格的に交わる時で楽しくて仕方ありません。イエス様と私は両想いです。「イエス様、愛して下さって感謝します。私も愛しています」と。今日も、祈りのバリア張りました。毎日張ります。

2014.8.24
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主日礼拝説教要約

2014年08月24日 | 説教要約
 「神によって心をきよくされる」詩篇101篇1~8節  
「わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。」(2)

 ダビデの讃歌であり、おそらくダビデが王位についた初期のものであるだろうといわれています。国を正しく治める王として、まず自分自身が、家庭が、国家が次のようでありたいとの祈りが込められています。

Ⅰ 神と共にあゆむことによって心きよくある
 「全き道に心をとめます」「直き心をもって、わが家のうちを歩みます」とあります。彼は、倫理的道徳的以上に、神との関係においてきよくありたいと願っています。神と自分との間に何も置かず、まっすぐであることであります。自分の心がきよくされていく時、家も、国家も主の臨在の場となるでしょう。


Ⅱ 罪から離れることによって心きよくある 
 「目の前に卑しいことを置きません」(3)とあります。罪の誘惑になるようなことを目の前に置かないということです。それだけではありません。誘惑する者たちから距離をとるということです。世に置かれ生かされているクリスチャンですが、世に浸かってしまうのではなく、しっかり境界線を設けるべきです。さらに、クリスチャンの交わりの中に身を置くのです。礼拝はもちろん、祈祷会、小グループなどに積極的に出るのです。常に主を目の前において、罪から離れきよくあり続けることです。

 「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉に従って、それを守るよりほかありません。」(詩篇119:9)

 2014/8/24 説教者 杉本守
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講壇の花

2014年08月24日 | 生花
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天のマナ

2014年08月23日 | 教会案内
「唯一のクリスチャン生活のルール」
    
「クリスチャンになったらお酒は飲んではいけないのですか?」「賭け事は?」「宝くじは?」「ブランドのバックや宝石は?」などの質問を受けます。
 旧約聖書には多くの律法がありますが、主イエスはそれらのすべての律法を成就し、真髄(神を愛すること、自分を愛するように隣り人を愛すること)をあらわしました。
 新約のこの時代のクリスチャン生活のルールはこれ一つです。これは言い換えますと、「神の栄光をあらわす」こととも言えます。神は何のために私たちを造られたのでしょうか。神の栄光の為であります。「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ43:7)とあります。またパウロを通して神は、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(Ⅰコリント10:31)と語っています。
 「このことは神の栄光をあらわすことだろうか」との、この基準に照らし合わせ、神に喜ばれる歩みをこれからもして行きましょう。

2014/8/17

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主日礼拝説教要約

2014年08月17日 | 説教要約
「神のうちに生かされている人間」使徒行伝17章22~34節

 「事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(27,28)

 大自然を前にすると人は、その大自然に圧倒されます。その大自然の背後に何かがある、誰かがいると人は感じます。どの国にもどの時代にも、人は神を求める宗教心があります。その理由は、人は神により霊的存在として造られているからであり、創造者なる霊なる神を求めるからです。しかし、神から離れ罪の中にある人間は、真の神がわからず、ある者はその大自然を神だと思い拝み、ほかの者は大自然に神の霊が宿っていると拝みます。しかし、それらは神ではなく、神が造られたものにすぎず、神の栄光をあらわしているに過ぎません。それらの被造物を拝するのではなく、それらを造られた神を拝するべきであります。

 パウロはアテネにいました。多くの偶像が神としてまつられアテネの人々によって拝まれていましたが、彼らのうちに確信と平安がありませんでした。どれかは当たるだろう、しかし、当たらなかったらまずいので、まだ知られていない神という神まで拝んでいたのです。正しい神がわからず迷っていました。そこで真の神を知っていたパウロは、神は唯一であり、この真の神は天地創造の神であり、イエス・キリストによってすでに救いをなしたと語りました。受け入れ信じた者もいましたが、二元論の自分の考えを優先しへりくだることをしなかった者たちは受け入れず救われませんでした。

 真の神は、今あなたに自らを語っています。へりくだり真の神を受け入れ救われましょう。

 2014.8.17 説教者 杉本守

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天のマナ

2014年08月10日 | 天のマナ
 「主の祈り」を祈る者                               
 『第二代の国連事務総長を務めた、ダグ・ハマーショルドという人がいました。スウェーデン出身の熱心なクリスチャンで、1953年から国連事務総長を務めていましたが、1961年に、中央アフリカのコンゴ動乱における和平ミッションに出向く途中で、飛行機事故によって殉職しました。この人が、主の祈りの前半をもとにしてこのように祈っていた、ということが伝えられています。
 「御名が崇められますように、私の名ではなく。御国が来ますように、私の国ではなく。御心が行われますように、私の心ではなく」。主の祈りに彼がつけ加えた、「私の名ではなく、私の国ではなく、私の心ではなく」という言葉は、それぞれの祈りの意味をより明確にしています。「私の名ではなくあなたの御名こそが崇められますように。私の国、私の支配ではなく、あなたの国、あなたのご支配こそが成りますように。私の心、私の意志ではなくあなたの御心、ご意志こそが実現しますように」、それがこの三つの祈りの心です。そしてそれは今申しました、主の祈りの構造ともつながります。先ず、神様の御名、御国、御心を真っ先に求め、それから私たちのことを祈り求めていく、「主の祈り」を祈る者はそういう信仰に生きるのです。』 
(藤掛順一牧師説教より)

2014・8・10
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主日礼拝説教要約

2014年08月10日 | 説教要約
「われらは主なる神のものである」 詩篇100篇1~5節

 「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。」(詩篇100篇3節)

 この詩篇は礼拝への招詞として、今では礼拝式の最初に毎回読まれているものであります。主が礼拝に招いてくださっていることはなんと幸いでしょうか。この詩篇は、捕囚解放後に書かれたものと言われています。

Ⅰ 主の恵みによる礼拝への招き
 主なる神は、私たちを礼拝に招いておられますが、どのような思いをもって礼拝に来なさいと言っているのでしょうか。それは、喜ばしく声をあげ、歌いつつ来なさいということです。私たちは今朝、台風の中、どのような気持ちで主の前に来たでしょうか?神の民は、出エジプトの恵み、出バビロンの大いなる恵みを振り返りながら、礼拝をささげました。

Ⅱ 主の恵みによる礼拝での恵み
 われらは主のもので、われらは主の民、その牧の羊であります。こんな私たちを主は、自らの所有としてくださり、主は責任をもって養っていて下さるのです。霊的恵みはもちろん、私たちが信仰者として歩んでいく生涯のすべての必要を満たして下さっているのです。

 私たちは毎週礼拝に招かれています。自らの救いを感謝しながら、主の恵みの奥へ入れていただきましょう。

2014/8/10 説教者 杉本守
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