「主イエスとの交わりを深く」
主イエスは、どこにおられるのでしょうか。父なる神の右の座であります。そこだけにおられるのではなく、聖霊なる神を通して、主イエスを救い主と信じるクリスチャンの内にいてくださいます。さらには、教会(呼び出された者たち)にいてくださいます。共に会堂に集まり礼拝をささげる場で、セル・グループで分かち合い祈りあう場で、ディボーションをして祈る場で、主イエスは私たち一人一人に、み言葉を通して語り、御手で触れてくださるのです。
人生は何で決まるのでしょうか。名誉や財産でしょうか。はたまた学歴、功績でしょうか。それらのものは過ぎ去っていくものであります。人間の霊を満たすものではありません。人生は、何度主イエスに触れていただいたかで決まるのです。主イエスによって心身の癒し、魂の救い、罪の赦し、自我のきよめ、悪習慣などの縛るものからの解放、聖霊による満たし、神の国の確かな希望をいただいて歩むのです。あなたは、主イエスとの交わりが深くされているでしょうか。深くされていくことを求めましょう。
「あなたがたは、神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」(Ⅰコリント1:9)
2012/7/1
「祈りの場と祈りの時」 マタイによる福音書21章12~22節
エルサレムに入られた主イエスは、十字架を目指して進みます。本日は、「宮きよめ」「枯れたいちじくの木」から、祈りについてみ言葉をいただきましょう。
Ⅰ 祈りの場
宮に入られた主イエスは、宮の庭で商売をしている者や鳴く動物を外へ追い出しました。主イエスはなぜ怒りそうされたのでしょうか。それは、「わたしの家は、国民の祈りの家ととなえられるべき」とイザヤ書のみ言葉を語って示されました。本来の祈りの場が失われていたからです。祈りの場が、利欲を求める強盗の巣になっていたのです。祈りの場の本来の姿を主イエスは取り戻されました。
Ⅱ 祈りの時
宮きよめの出来事をはさみ、枯れたいちじくの木のことを記されています。これは、主イエスの行為による譬えであります。葉ばかりで実がならないこの木は、エルサレムにある神の民を示しています。神の恵みをいただきながら、信仰の実をみのらせていないのです。神の求めに応えられない神の民は、神の裁きを受け枯れることを意味しています。ローマによって滅ぼされます。
私たち教会は、真の神の民です。私たちの祈り場はどうなっているでしょうか?集中して神にささげているでしょうか?祈りの時、実をならす信仰の祈りをしているでしょうか?
主なる神に喜ばれる信仰による祈りをささげましょう。
2012/7/1 説教者 杉本守