昨年までの前の会社では、年末の仕事納めの時点で疲労感一杯だったが、今年は待っていましたと言える年末休みになりました。ただ、今日も真冬日とあっては、外ランは慎重にならざるを得ないので、自転車のペダル漕ぎ60分です。
戦後左翼史 その1 六全協 55年体制
少し時間をかけて歴史を振り返ってみたいと思っている。興味の無い人にとっては全く無駄な時間と作業におもえるだろうが、僕のような左翼絶滅危惧種にとっては、自分の思考に孕む欠落事項、根本的な欠陥と向き合っておきたいからである。
1955.7.30アカハタ 日本共産党第六回全国協議会の決定と決議の見出し。1955.7.27から29日までの3日間にわたり、いわゆる六全協が開催された。1950年夏以来の党の分裂状態を解消した。黒で枠取りされた写真は、徳田球一書記長、1953.10.24北京で死亡していたことが発表された。1953.9.15に中央委員会で決定されていた伊藤律除名を確認。ソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党より祝福メッセージが届いている。
中央委員会常任幹部会員(7名)が選出された。野坂参三、志賀義雄、宮本顕治、袴田里見、志田重雄、紺野与次郎、西沢隆二が党を主導していくことになる。
(*印は、僕の考え)7名のその後を簡単に記す。
・志田重雄(1957年除名、資金浪費で失踪、変名は金井貞吉、日本共産党(解放戦線)全国指導部)
・志賀義雄(1964年除名、部分的核実験禁止条約を批准しない中国共産党寄りの党と対立、日本共産党(日本のこえ)を結成)
・西沢隆二(1966年除名、日中共産党の路線対立が理由、中国共産党寄りの西沢は、日本共産党(左派)に参加、詩人としての筆名ぬやまひろし)
・袴田里見(1977年除名、スパイ査問事件で宮本顕治を攻撃)
・野坂参三(1992年除名、ソ連でのスパイ行為が判明)
最後まで党に残ったのは、宮本顕治と紺野与次郎だけという異常な状態。特に宮本は、徹底した異論の排除、党活動を理由とするのではなく金や女といったスキャンダルによる処分など自らの党内権力を固めるためにはあらゆる手段を使った人である。
宮本氏を分析することは、その後宮本―不破―志位と繋がる日共のDNA、体質を知ることであり、万が一、この先日共が政権に加わるようなことがあれば、党内で行われていることが、今度は国民に対しても同様に行われることに繋がると考える。
1955年(1954年12月生まれの僕は、ほとんど0歳)には、2月日本生産性本部設立、4月初めての春闘、7月日共統一、10月左右社会党統一、12月保守合同により自由民主党結成と、その後長らくこの国のフレームとなるいわゆる「55年体制」が構築された。
手元にアカハタ(1959年から1965年位まで)と北海道新聞(1965年位から)の記事のスクラップがある。歴史家のバイアスのかかった歴史書を読むことに比べて、新聞を読むという行為は、より当時の生活者の実感に近いものではないかと感じる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます