晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

和田由美 『ほっかいどう映画館グラフィティー』 釧路篇

2015-12-20 14:54:01 | Weblog

 外気温がマイナスの中でのリハビリトレーニングは、身体に良いのか、害があるのかはわからないが、僕にとってはこれまでどおりのことで、体調維持には必須の運動です。

 「マイナンバー」や「消費税(軽減税率)」などをめぐり、お国の官僚の力量がかなり低下していると感じます。制度設計がお粗末です。国民の暮らしの実態や何が求められているかを把握できていないのではないかと思います。国民国家の黄昏を迎えて(これは、僕の時代認識です。)、官僚組織の劣化が発現しています。

 

 『ほっかいどう映画館グラフィティー』(和田由美+北の映像ミュージアム著 亜璃西社 2015年刊) 釧路篇                            

 「映画を観なくなった時、その人の青春が終る」という言葉を聞いたことがある。僕の場合、一番観たのは、高校、大学時代(1970年代)で、30歳くらい(1980年代後半)からはほとんど見ていない。その瞬間、「ああ、青春は陽炎か~」になったのだ。しかし、50歳くらいから年に数回だが再び映画館に行くようになった。映画館も様変わりしていて、煙草の臭いが無く、シートも清潔で大きく、何より完全入れ替え制の一本立てになっていた。

 本書を読んだ方は、映画の思い出とともに、暮らしていたその街のことや若かった頃の甘酸っぱい出来事が浮かんで来るだろう。特に、巻末の「特別付録:昭和36年(1961年)道内映画館一覧」(僕、小学1年生)がいい。

 当時、釧路市の人口は15万人で映画館が市内に18館もある。今はゼロ!祖父が商売を営んでいた南大通には「東映グランド」(経営者:北山義郎)と「釧路南映」(浅川興行)があり、小学校に入る前は東映時代劇の絶頂期で大川橋蔵、東千代之介、美空ひばりなどを観た。「南映」は汚くて、行くと必ずノミをもらってきた。小学校に入ると「釧路東宝」(ツルヤシネマ)、「釧路東映劇場」(東映)などで、フランキー堺、森繁久彌の駅前シリーズ、クレージーキャッツ植木等の無責任シリーズ、ドリフターズの全員集合。よく祖父から「東宝」のタダ券をもらっていたがその理由が今わかった。祖父が丸三鶴屋関係者だったのでツルヤシネマの株主優待だったのではないかと。

 小学校の途中で引っ越し、近くなった「春採劇場」(興映商事)や「桜が丘劇場」(興映商事)にも行くようになった。この2館は太平洋炭鉱の従業員向けの娯楽施設で、土日を中心に不定期で上映していた。昼には子ども向けのマンガをやり、夜は大人向けの映画を上映したりしていた。学校で東京オリンピックの映画を観たのも「桜が丘」だったと思う。

 中学、高校になると洋画を見るようになる。「セントラル劇場」(欧米興業)、「釧路映画劇場」(須貝興行、通称エイゲキ)、そして本書P164にも書かれているが、1967年に浅川ビルができ、「釧路劇場」(浅川興行、センゲキ)と「ミラノ座」が入った。定期試験が終ると泉屋でミートソースの大盛りを食べて、「アラビアのロレンス」「ベンハ―」「007」などの映画を観た。それは、進学校と言われ生徒たちも何だか自分は勉強しているという気分になっていたその頃のわずかな楽しみでもあった。

 末広町にあった「日活オデオン」(日活)、「スバル座」(浅川興行)、「第ニ東映」(興映商事)、駅裏の若松町にあった「帝国劇場」(帝国劇場)、「日本劇場」(日本劇場)、「東映パール」(東映パール)、新橋大通「新橋映画劇場」(東映パール)、鳥取の「十條娯楽場」(十條製紙)、大楽毛の「本州製紙体育館」(本州製紙)の記憶は無い。

 

 

 

 

 

コメント (2)
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