晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『教誨師』

2014-04-07 20:21:18 | Weblog

 1か月ぶりの紀伊国屋書店。イノダコーヒーの後にスタバ。軽食がサンドイッチくらいしか無く、少し不満。山本直樹作『レッド1969-1972』(劇画)を購入しようか迷うが、6巻で6,000円もするので今日は我慢。小林秀雄と宮台真司、雑誌を2冊を購入。今月は飲み会も多く、金欠病。

 週末ランを続ける。詳しくはここに書けないが、なぜか結果的に営業にもつながり「芸は身を助く」を実感する。ただ、豊平川ハーフまで1か月を切るが、現状では走り切る力は未だ無い。少しづつスピードと距離を延ばしていかなくては間に合わない。

 

 『教誨師』(堀川惠子著 講談社 2014年刊)

 私は、北海道新聞と土日のみ日本経済新聞を購読している。日経は、土曜日のサタデー日経、日曜日の書評欄を主として読むためである。本書は、どちらかの書評で取り上げられていたので購入。その結果は、☆☆☆☆☆の強烈なインパクトを持つ良書であった。多くの人に読んでほしいと思う。

 拘置所という一般社会から隔絶された空間における死刑囚と教誨(きょうかい)師の関係というこれまであまり世の中に明らかにされたことのない題材を扱った作品である。本書は、浄土真宗の僧侶である教誨師からの聞き取りの記録である。末尾の参考書籍にある加賀乙彦の『死刑囚の記録』や吉本隆明の『最後の親鸞』などを読んでいたことも私の本書への入りを良くしたと思う。

 ここで、内容を追うことはしないが、こんな読み方をしてみたらどうであろうか。

 もし、自分が、外部との交流が極端に制限されている死刑囚であったならどう考えるだろうか。明日にでも執行されるかも知れない極限の精神状態の中で、果たして教誨師との交流を求めるだろうか。話をしても本当のことを語るであろうか。死刑囚の側からキリスト教を含めて教誨師の宗派を選べるということだが、私なら、なぜ宗教家しか選任できないのか。なぜ、宗教にしか出口を作らないのかという疑問を持つだろう。最期は宗教なのか?

 反対に、死刑囚になるより確率が小さいと思うが、もし自分が教誨師であったならどう考えるであろうか。死刑囚にどうアプローチしたら良いのか。そもそも接点を見出せるであろうか。何のために宗教を語るのか。死刑囚に償いの心をおこさせるためなのか。起こしたことの真実を語るように導くべきなのか。死刑の執行に際して、心の準備をさせるためなのか。そもそも宗教の教義が通用するのか。

 また、吉本隆明が明らかにした、心の構造のあり方、「自己幻想、対幻想、共同幻想」の概念を使いながら、犯した罪の原因も分析してみたくなる。それが、自分自身との関係からなのか、親子や男女関係のもつれからなのか、集団の中でどうしようもなくなったからなのか、と。親鸞の教えからは、こういう救いなのだろうが、他の宗派はどの様な教えを使うのだろうか、キリスト教ではどうなのだろうか。興味は尽きない。

 主人公の僧侶は、自分の生きている間は明らかにしないという条件で、この筆者に閉ざされた社会の中で本当に起きていることを語ったのである。

 


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