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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その2

2014-01-29 19:37:33 | Weblog

 大丸デパートのイノダコーヒーに行ってみましたが、こんなにも騒々しかったかなと思うほど、落ち着けぬ場所になっていました。バレンタインにちなんだコーヒーセットを食べ、早々と退散です。サツエキ付近で、どこか落ち着ける場所を探さないと。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その2

 「商品のフェティッシュ的性格とその秘密」(P109~)で、マルクスは、当時の従来から経済学を批判したのち資本主義社会に代わる社会の可能性を示唆する。

 (P121から引用)「社会的生活過程の姿、すなわち物質的な生産過程の姿は、この過程が自由に団体を作る人間たちが生み出したものとして、人間たちによって自覚的に計画的にコントロールされたときにはじめて、その神秘的な霧のヴェールを脱ぎ捨てるのである。とはいえそのためには、社会の物質的基礎が必要である。すなわちこの土台は一連の物質的生存条件であって、それ自体がやはり長期にわたる苦悩にみちた発展の自然成長的な成果なのである。」という。

 マルクスが今も私たちが生活している資本主義社会を批判し、それに代わる社会を語る箇所は少ないのであるが、ここでは、「自由に団体を作る人間たち」としてそれを担う主体を、「社会の物質的基礎が必要」としてその条件を、「やはり長期にわたる苦悩にみちた発展の自然成長的な成果」として、その実現は容易なことではないと述べる。歴史の後知恵になるが、ここからは、1917年にロシアで生まれたソ連型社会とは似ても似つかないものであることだけは確かである。

 「自分が正しいことをやっていると思ったその時点で、それは大体終わっているんだよ」、吉本隆明の言葉だったと思う。私たちは、今まで「社会は悪い」という前提で物事を語っていなかっただろうか。私などは、とにかく社会が悪いのだから、何でもいいから社会を変えなければならない、と思っていた。取り敢えず、社会が混乱は歓迎すべきもので、カオス状態になれば、何か別の情況になるのではないか。まさに、主観的な思い込みである。

 左翼に限らず政治党派に関わる人、ボランティアに懸命な人、自分が正しいと自信に満ちている人、きっとその通りなのであろう。そして、今の自分に似合うのは、誰かの話を聞くことと思っている。

 

 んーん、PSA 5.5 2年前にも。

 


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