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『初期マルクスを読む』 その7

2011-04-30 20:27:20 | Weblog

 GW初日の29日は、宮の沢白い恋人パークでコンサの練習を見学。本日のFC東京戦を前に精力的な練習を行なっていた。

 

 遠征メンバーに入っていないゴンちゃんが寂しそうだった。

 

 GW2日目の本日30日は、真駒内公園で5日の豊平川ハーフマラソンに向けた走りこみ。1周3kmのアップダウンのキツイコースを7周。

 

 体重が正月に比べ5kg減、この時期にこれ程落ちたことがないので身体が軽く感じる。体脂肪も落ちて、いよいよ「ホッチャレ」の領域に。

 

 GW3日目の明日1日は雨か?

 

 

 

ノオトその7(完)

最終章 労働概念の変容

○使用価値と交換価値

 若きマルクスの提示した概念が、後年、変更されたり、表に出なくなったりしている。例として、「労働」概念の変容を取り上げる。

 

 『経済学批判のために』では、使用価値を生み出す労働は、長い長い過去の歴史につながっている(歴史貫通的と習った。)のに対して、交換価値を生み出す労働は、資本主義社会という特殊な社会の中でのみ現れてくる。

 

 『資本論』では、使用価値を生む労働は、労働の質(方法と内容)が問題であり、「具体的な、有益な労働」である。価値(交換価値)を生む労働は、労働の量(時間)が問題であり、抽象的・一般的な労働である。

 

 

 初期の『経済学・哲学草稿』では、使用価値を生む労働は、自然を人間化する労働、人間を自然化する労働、「疎外された労働」などが論じられたが、後期の経済学では、疎外されない労働や人間が本来的に、豊かに働いている場面など(未来社会の理想像)が論じられることは無くなった。資本主義社会にあっては、本来の労働はなく、「疎外された労働」が社会全体のうちに構造化している。

 

○疎外の克服

 「価値を生む」ということも経済学では、交換価値を中心に論じられる。使用価値は、埋もれてしまって、その人間性を取り戻すには社会が変わらなければならないということが、暗に示唆される。『資本論』は、資本主義社会の原理を分析するが、直接的に社会を変えるようなの主張(革命)はしない。

 

 

1989年から1991年にかけて東欧・ソ連型の社会主義体制が崩壊し、資本主義体制の勝利が叫ばれた。その後、資本の本性が剥き出しになった新自由主義が資本主義体制において席巻した後、格差社会が浮き彫りになり、リーマンショックで経済がクラッシュ。

 

*現在、一時は廃棄物化されたマルクスの思想が再び脚光を浴びているが、『資本論』の即席的な読み方を中心とした経済学分析に焦点が置かれているように感じる。

 

*しかしながら、そこから資本主義体制の廃棄、別の社会のあり方論などという主張には繫がって来ないのは、ソ連型社会主義社会における抑圧体制の後遺症もあるが、後期マルクス(『素本論』の経済学分析)からは実践的な運動へのエネルギーが噴出してこないからである。

 

*著者の抑制的な文章(政治的メッセージを脱色していると言った方がよいであろう。)では直接表現されていないが、私は今一度原点に戻り、マルクスの疎外論から疎外を克服できる社会のあり方について、思想の再構築が必要と考える。

 

 


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