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与那覇潤 『歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの』 その2 コロナ 理系頭脳時代

2021-08-07 16:10:20 | Weblog

国民は命を人質に取られ、逼迫と崩壊という言葉に脅され続けてきたがコロナ病床がさっぱり増えない。なぜなの?大規模な野戦病院をなぜ作れないのか。そこに言ってはいけない何かがあるのではないか。 一句できました。「五輪ピック 勝てばお祭り 負けたらお通夜」

 

『歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの』(与那覇潤著 朝日新書 2021年刊) その2 コロナ 理系頭脳時代 

コロナとの闘いが世界中の関心事項になっているこの1年半、データが日々の報道を占拠し理系頭脳時代になっている。毎日登場する現場の医師、感染症学者、医師会の方々は理系でほとんどが医系、皆さんとはすっかり顔なじみになったような気分だ。感染者数、病床使用率、人流、ワクチン接種率・・これらの現状と予測の数値の説明を繰り返し繰り返し聞いているうちに大方の国民はその意味を他の人に説明できるくらいの知識量を持ってしまったのではないか。

理系出身の僕にとっては、社会の事象を抽象的で情緒に訴える表現ではなく、データに基づいて論理的に説明されるので合理的に理解しやすいと感じている。いつもの頭の使い方なので、容易に理解できていると思いこんでいる。会社で働いていたころを振り返ると、ひとつの問題が生じた場合、本来はその問題には様々な要因が複雑にからまっていて、そこから解決策を見出していくのはそう簡単なことではないと思いながらも、理系脳の合理的なモノサシを使ってスパッと割り切ってしまって結論を導いていたところがあった。

そのため当時の自分の思慮がどうも十分ではなかった、浅かったこともあったのではないかという思いをずっとひきずっていて、そのことが現在、放送大学で哲学や歴史など人文科学を中心に学んでいるひとつの原動力になっている。年齢とともに自分の思考方法がパターン化してきていて、バランスに偏りがあるのではないか、そんな部分を補うために今一度リストラクションしたいと思っている。

昨今の理系頭脳時代に対して僕が漠然と感じているのは、ただただ不安しか生み出していないという単色系の景色だ。罹患、死亡、後遺症、ワクチン副反応・・が一定の確立で数値的に示されるので、宝くじに当たるように自分がいつか当事者になるのではないかと悲観的に考えてしまう。僕は、いまの情況に大きく欠落していることは、不安を煽ることではなく、人々に安心を語ることだと考える。それはデータの説明ではできない。この社会を問うことが必要なのだ。例えば、自分が生きているとはどういうことなのだろうか。僕らが今生きている社会はどんな社会なのだろうか。死ぬということは生きているということに対してどういう意味を持つのだろうか。

著者が教えてくれるのは、この社会や自分を問うためには、「今、ここ」だけの視点では不足であり、社会や自分を時間的、空間的に離れた位置から捉え直すことが必要だということ。歴史を紐解き、その時々で人間が何をどのように考えてきたのか、そのような時にどのようなことをしてきたのか、それらを掴みそれをもとに人々に安心を語ることが必要と考える。

また、どうも気になることがあるのだが、こんなときになぜ人文・社会系の知識人からの情況への発言がないのだろうかという疑問である。今こそ文系知識人の社会的な使命として言葉を発しなければならないと考える。特に、ポンコツスガから任命を拒否された学術会議の6名の学者は今こそ自らその存在意義を示すときだと思う。

 

 

 

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