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西谷修 『私たちはどんな世界を生きているか』 その1 自由 新自由

2021-03-26 13:22:30 | Weblog

総務省接待問題に内在する利権構造を知るには、今は無き「電波監理委員会」を調べるといい。キーワードは、GHQ、旧郵政省、田中角栄、民放認可、新聞とテレビの系列化、橋本内閣中央省庁再編、総務省である。改善策として参考になるのは原子力規制委員会だと思う。

 

『私たちはどんな世界を生きているか』(西谷修著 講談社現代新書 2020年刊) その1 

最終章である第5章「令和の日本と世界のこれから」で、著者は「どんな世界」を提示しているか。

(著者の論旨)「自由」の歴史的経緯を追う。かつての「自由」と現在の底が抜けた「新自由」は異なるという。

①西洋諸国は、市民革命によって民主・平等・自由という原則を確立した。ここでの「自由」は、旧来の共同体にあった封建的身分秩序・束縛からの解放という意味での自由だ。(ただし、この自由には束縛を離れて出現した労働者にとっては、没落する自由という意味も含まれていた。)

② ①の自由は、西洋諸国相互間という一定の域内に限られた自由で、域外に対しては植民地化政策という力の原理で制圧した。

③その後の歴史は、植民地の争奪戦、先進資本主義国と日本やドイツといった後発国との軋轢による2度の世界大戦、米ソの冷戦を経て1990年代になってアメリカの単独覇権体制が成立した。

④そこでは、かつての市民革命で獲得した基本的人権としての自由とは全く異なる「新自由」という考え方が出てきた。これはグローバル経済の展開の下での自由であり、その結果各国において国民の間に大きな格差が生じて新たな身分制社会が生まれた。この事態を著者は、「分断された人間たちが市場の自由の濁流のなかに溺れている」と表現する。

⑤「私たちが生きている世界」は、AIなどの技術が際限なく進歩し、それが持つ何でもできるという全能感に満たされている。この延長線上では、私たち人間はその生身の身体で生存している成層圏を超えてしまい、新たなバーチャル次元へと突き破っていくという。著者は、この状態を「自由の底が抜けている」と表す。そこは人間の生存を脅かす世界だ。私たちは、今そのターニングポイントに立っている。反転可能なギリギリの地点に生きていると警鐘を鳴らす。

⑥この現在の生存危機を克服するために、再度原点に戻って人間は生き死にする有限な存在としてものを考える。「自由」を考え直し、その限界を認識することが重要だという。

(僕の考え)著者は、あとがき(P269)で自分はマルクスやマックス・ウェーバーには頼らないと述べているが、「自由」と「新自由」の違いは、18世紀の自由放任を原則とする古典派経済学と20世紀においてケインズ経済学のあと「新自由主義」を唱えて隆盛を極めている新古典派経済学の理論を用いれば一目瞭然にわかる。しかるに著者は、時代情況を縷々言葉を要して詩的に表現しているが経済学的には解明済みのことだ。

次に、著者は技術の影響力を過大評価し過ぎと思う。果てしなく技術革新があろうとも我々人間が生きていく世界が成層圏からバーチャルな別次元に移ることは絶対にありえない。AI、核、遺伝子・・最先端の技術には現在の人間にとって制御不能に見える部分があるが、だからといって生身の身体で生きている人間が別の世界で生きることになるとは思えない。基本的に技術が人間を超えることはありえない。例えば、人間の脳の働きの全てのメカニズムが解明されなければ、大量のデータをベースに判断するAIが人間の思考水準を超えることはない。技術は人間の後方を人間よりも高速でかつ疲れ知らずに走ることはできるが、人間の前を走ることはないと考える。

本書は、『私たちはどんな世界を生きているか』という大きな構えで始まったが、結論は自由の再考が必要というショボいものだ。

 

 

 

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