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原武史 『平成の終焉―退位と天皇・皇后』

2019-04-10 14:18:13 | Weblog

新元号が政治主導で決められたという事実が徐々に明らかになってきた。この露骨さは予想されていたことだが、やっぱりそうかという半ば諦めの気持ちにもなってしまう。「令」の字の意味を漢和辞典で調べると、いいつけ、きまりが先に出てくる。僕は語感が冷たいと感じる。

 

『平成の終焉―退位と天皇・皇后』(原武史著 岩波新書 2019年刊)

端を発したのは、2010年7月の参与会議で「私は譲位すべきだと思っている」(皇室典範を改正し退位を恒久制度化してほしい。)と述べた天皇に対して、皇后を含む出席者全員が反対し、今の制度でできる摂政の設置を意見したということからだ。しかし、その後国民も政府も誰も天皇の気持ちを忖度しなかったためにこの議論は進まず、2016年7月13日の「おことば」に至った。それは天皇自らが直接語らざるを得なかったということを意味する。

平成スタイルとはどういうものか。本書で述べられている平成流の特徴は、天皇と皇后が常に行動をともにすることにある。二人は仲睦まじい夫婦像を演じている。また皇后が天皇より一歩後ろを歩く。行幸啓の途上、天皇・皇后がともに膝をつき、一人ひとりに向かって語り掛けるスタイルは美智子妃が主導する形で皇太子(妃)時代の行啓のなかにすでに芽生えていた。自分たちから人々に近づき、同じ目の高さで語りかけるスタイルは結婚直後から追求してきたということである。

昭和天皇・皇后に比べて、平成天皇・皇后は祈りということに対して熱心である。晩年の昭和天皇は年に1回の新嘗祭での夕の儀しか行わなくなり、香淳皇后は全く出なくなったという。また、現皇太子妃は、2003年12月から療養生活に入っていて、15年以上にわたり、天皇・皇后が出席する祭祀には一度も出ていない。一方、秋篠宮夫妻は宮中祭祀に非常に熱心だが、天皇・皇后、皇太子夫妻以外の一皇族であるため宮中三殿に上がって拝礼することができないとのことである。

以上は、著者の叙述を要約したものあるが、ではポスト平成においてそれらはどのように受け継がれていくのかについて著者は以下のように述べる。

先ず大きな違いとしては、雅子妃の健康問題である。

右派は天皇の権威化を主張し、家族旅行などで見せるマイホーム天皇制に批判的である。皇太子妃時代からずっと一緒に行動し、皇太子を上回る人気(ミッチ―ブーム)を集めてきた皇后美智子に対するバッシングと天皇の権威化は連動していた。極端に言うと「皇后はあまり意味のある存在ではない」のであり、天皇さえいれば良いというものである。

右派は天皇の権威化を主張し、家族旅行などで見せるマイホーム天皇制に批判的である。皇太子妃時代からずっと一緒に行動し、皇太子を上回る人気(ミッチ―ブーム)を集めてきた皇后美智子に対するバッシングと天皇の権威化は連動していた。極端に言うと「皇后はあまり意味のある存在ではない」のであり、天皇さえいれば良いというものである。

そこも注目ポイントである。60歳近くになってから天皇の位を継ぎ責任を背負うというのは容易なことではないと考える。それに加えいつまでも父が表面に出続ければ存在感も薄くなり、それはモチベーションにも影響してくるのではないだろうか。

また秋篠宮は、皇嗣になることで皇太子同様、宮中三殿に上がることができるようになる。宮中祭祀に熱心な秋篠宮夫妻の存在感が増すのではないか。

僕にとっては、年号が変わることよりも、新天皇のもと皇室がどのようになっていくのだろうかの方に興味をもつ。ただ究極的には、中学生になったばかりの悠仁さまが、今後どれだけの男子を作るかに皇室の存亡がかかっているのだ。

 

 

 

 

 

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