晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

辺見庸 『1★9★3★7 イクミナ』 

2015-11-08 13:31:10 | Weblog

 ドクターからは適度な運動をするようにと指導を受けているが、平日は中々その時間を確保できない。退院後、自宅療養期間は急速に体力の回復を実感できたが、ここにきて足踏み状態のように感じる。それは、自分の目指しているレベルに比較すると、6~7割位か。せっかくの日曜日なのだが、今日は雨。

 

 『1★9★3★7 イクミナ』(辺見庸著 金曜日 2015年刊)

 辺見庸の著作は、『もの食う人びと』以降、ほぼ読んでいる。講演会に行ったことも、仲間と一度だけ講演をお願いし、その後の懇親会で本人とお話をしたこともある。とても感性が合うと同時に、彼の単独者としての立ち位置に感じる違和は、僕自身の陥っている、そして左翼に共通する独尊性である。辺見について感じていることは、このブログ2012.3.25で辺見が震災以降の情況について取り上げた『瓦礫の中から言葉を』と基本的に変わらない。

 本書で辺見がテーマにしたのは、1937年に日軍(日本軍)が起こした南京大虐殺である。もし、自分が日軍のひとりとしてその場にいたら、どの様な感情を持ち、否、感情を持つことを棄て、どの様に行動しただろうか。そして自分も中国人を殺していただろうか、命令から逃げることができただろうか。逆に、殺される中国人であったなら・・・と執拗に自らに問い、考え、答えが見つからず彷徨い、そして悩む。その自身の思考過程を丁寧に自己分析し、言葉を選び紡いだ作品である。

 僕は、辺見の作品は常に読む者を現場に引き込む力を持っているのだが、彼の文章を追うだけで自分では何も考えていなくても、あたかも自分で考えたような気分になってしまうことがあるので、そこを戒めなければいけないと思った。

 辺見が、1937年を取り上げた意図は、言わずもがな、過去の歴史を検証、反省するというだけではなく、これはこの国の近未来を預言しているということを言いたかったのだろうと推察するが・・・・あえて辺見の批判もしておきたい。

 本書で、辺見は日軍が南京で虐殺した中国人の数や天皇の戦争責任など今も議論のある話題、というより言い方によっては右翼から攻撃にさらされる恐れのある話題については、自説を述べていない。思わせぶりに語っているが、断定的な表現を巧妙に避けている。堀田善衛をはじめ他者の著作から引用という形で、他者の口で語らせてはいるが、辺見自身は一見すると強い口調で語ってはいるが、論争に巻き込まれることのないよう予防線が張られている点である。

 今僕は同時に、森達也氏の『すべての戦争は自衛意識から始まる』を読んでいるが、同じような主題について辺見氏は人間の心理面を、森氏は論理面から分析している。どちらもこの国の情況に対する危機意識に満ちた良書だと思う。

 

 

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