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『皇后考』 その3

2015-10-23 20:48:43 | Weblog

 新聞では小さな記事だが国連を舞台に中国が歴史論争をしかけている。南京大虐殺、化学兵器の使用、現在の潜在的な核兵器開発など日中の見解が真っ向からぶつかっているようだが、その内容が報道されない。僕は、この国が、ヒロシマ、ナガサキを忘れないように、否、原爆を投下した国が米国ということは忘れてしまっているようだが、被害を受けた側はいつまでも忘れることはないと思う。過日、日テレのドキュメンタリ番組で南京における中国軍捕虜虐殺を行った元陸軍兵士の証言を放映していた。この時期にこのような番組を作ったスタッフの志には敬服したいが、そこで扱われた事実は虐殺5千人規模であり、いわれている数十万人というレベルからはごく一部にすぎない。あえて、小さく見せるという意図があったとは考えたくないが。

 

 『皇后考』 その3

 引き続き、『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)第6章から第16章までの大正時代をノオトする。現行の天皇制が明治時代になってから、あわてるように構築されていったことがわかる。

 1900(明治33)年皇太子嘉仁(後の大正天皇)20歳と皇太子妃九条節子15歳(1884年~1951年)は、同年に定められた(!)皇室婚嫁令に従い「賢所大前の儀」と呼ばれる初めての(!)神前結婚式を挙げた。ここには、秘められた前史がある。1893(明治26)年、嘉仁は伏見宮貞愛(さだなる)親王の第一王女、禎子(さちこ)と婚約したが、1899(明治32)年に禎子の健康上の理由、子どもを産むことができるのかという懸念、から婚約を解消していた。それは、欧米化を象徴する、一夫一婦制の確立を図る必要があり、皇子を確実に産める女性が望まれていたためである。

 そこでお妃候補に浮上したのが節子であった。しかし、節子は黒姫様と呼ばれたように容姿に問題があった。1901(明治34)年、節子は第一皇子裕仁(後の昭和天皇)を産んだ。原因は様々想像されるが、嘉仁には宮中の女官に次々と手を付ける「御癖」があり、節子と嘉仁は別々の行動も多く、節子は精神的に落ち込むことがあった。

 1912(明治45)年、明治天皇(睦仁)死去。明治天皇は、一世一元制の試行(!)に伴い、元号を諡(おくりな)とした初めての(!)天皇となった。皇后節子は、裕仁よりも雍仁(秩父宮)に愛情を注いだ。

 まもなく、大正天皇(嘉仁)の体調に異変、「御脳力の衰退」が見られるようになった。体調問題があるため、皇太子妃選びが急がれ、皇后節子は大きな発言力持つようになっており、1918(大正7)年、皇太子裕仁の皇太子妃に久邇宮邦彦(くによし)親王の長女良子(ながこ)が内定した。しかし、1920(大正9)年、良子の母方の血統に色覚異常の遺伝があることがわかり、良子内定が危うくなった。これは、宮中某重大事件と呼ばれている。

 裕仁は、訪欧の後、1921(大正10)年摂政となった。大正天皇は天皇としての権限を完全に失い、療養に専念することになる。1923(大正12)年、帝国議会に向かう途中、裕仁は虎ノ門でアナーキスト難波大輔に狙撃される。弾はそれて無事だったが、その原因は皇太子が陸軍特別大演習に際して地方を訪れたとき、難波の許婚(いいなずけ)を寝取ったのを恨んだからだという噂が流れた。

 1924(大正14)年、裕仁と良子は結婚。1925(大正14)年、第一皇女成子(しげこ)が誕生。1926(大正15)年、大正天皇死去。時代は昭和へ。

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