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『完本 情況への発言』 その3

2012-01-08 19:31:32 | Weblog

 「アジア的ということ」①  

19805月『試行』第54号から19839月『試行』第61号までの7回にわたり(P299P434)、吉本氏は『アジア的ということ』と題しレーニンを批判している。

 

はじめに吉本氏はマルクスの「反」国家のイメージを語る。資本主義社会から共産主義社会への過渡期のコンミューン型国家は、国家によって常備された軍隊と警察の廃絶、それに代わる武装した民衆、民衆によって選出され、いつでも民衆の意思表示でリコールできる公務員の採用、国家公務員は労働者や大衆の賃金を上回る給与を受け取ることができない。その「反」国家(国家の死滅)への転換、一切の階級の揚棄(無階級社会)を進めるために「過渡期的なプロレタリアートの独裁」が必要である。また、生産手段の社会化は、生産手段の国有化とは同義ではない。

 

吉本氏は、マルクスの考え方を基本的に肯定する。私が聞いた1976年の講演会の時も、国家を廃絶した以降の社会を例えて、「政治に権力や利権が付きまとうことが駄目なのだ。政治を町内会の役員やゴミステーションの掃除当番のように皆が順番に担うような社会」という主旨の発言をしていた。

 

吉本氏は、それではなぜロシア革命は国家の死滅、従ってプロレタリアートの死滅、階級の死滅に向かわず、むしろ国家の膨張と強大化、民族排外侵略主義へ向かったのかと問う。

 

実際には、レーニンは権力の掌握後初期のうちに過渡期コンミューン型国家への転化を放棄していた。成立したのは、プロレタリアートの前衛集団に国家権力を掌握された近代民族国家であった。また、生産手段の社会化は、生産手段の国家権力による強制収容にしか過ぎなかった。

 

「被抑圧者の前衛」もまた「国家」の支配階級として組織されたときは、あらゆる「国家」と同じように抑圧者に転化するほかなかった。コンミューン型国家への即時的以降なくしては、「プロレタリアート」は、抑圧者、搾取者、国家的資本家階級に転化してしまう。

 

 権力を開き国家を解体するという目標を放棄した瞬間から、被抑圧者だろうが何だろうが権力を握った途端に、意図しようが意図せざるかは別として権力者に転化する。私には、「権力を取らずに世界を変える」(ホロウェイ)の言葉が浮かぶ。それには、どうすれば良いのだろうか。

                   

 

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