6月7日(月)
今回は、表記のタイトルで「ことばあれこれ」の記事にするのですが、もしかすると、「何を話題にするのだろう」と思われる方がいるかもしれません、特に若い世代の人は。
「です」ということばは、断定の助動詞「だ」の丁寧語です。そこで「です」を「だ」に変えてみてください。「うれしいだ」「楽しかっただ」とは言いませんよね。
赤塚不二夫の漫画に「これでいいのだ」というセリフがあります。このように、断定の助動詞「だ」「です」の前に「の」を入れると違和感がなくなります。「うれしいのです」「楽しかったのです」というように。
でも、「ボーナスが出てうれしいのです」や「孫と過ごして楽しかったのです」と言った時に、どうも「の」の入った表現がしっくりしないという状況もあります。こういう時は「うれしいと(うれしく)思います」とか「楽しいひとときでした」「楽しい時間が持てました」くらいにするのがよさそうです。
あと、文末に「な」や「ね」や「よ」などの終助詞を置くという手もあります。「なかなか渋いですな」「この花きれいですね」「けっこう楽しいですよ」というように。でも、これらは話しことばとしてかろうじて成り立っているとしか思えません。
まず、文法的な説明をしておきましょう。
一つ、断定の助動詞は「良い天気だ」とか「私は日本人です」のように、名詞に接続するという原則があります。
また、助詞の「の」には、「甘いのが好き」というように、体言(名詞)の代用をする「準体格」という用法があって、この「の」に接続させることもできます。「いいのだ」の「の」がそれに当たります。
要するに、「だ」や「です」は動詞や形容詞や助動詞の後に直接付くことばではなく、そして、そのことを当たり前だと思っていると、表題の「うれしいです」や「楽しかったです」という表現に違和感を覚えることになります。
上の二例のほかに、形容詞型に活用する希望の助動詞「たい」に「です」を付ける表現にもよく出くわします。「看護士になりたいです」のように。これも「だ」に変えるとおかしい言い方であることがわかります。正しくは「なりたいと思います」でしょう。
実を言うと、今回の記事は、三週間ほど前の5月22日の朝日新聞がきっかけでした。
土曜日は「be」という別刷りの紙面がありますが、その中のパズルの欄に、上記の誤用と同じ表現がありました。
拡大すると
「解きやすいです」とありますが、これは誤用で「解きやすくなります」が自然な表現だと思います。
この欄はクイズ作成会社へ下請けに出していて、新聞社ではチェックしていないのか、それとも、すでに一般に通用する表現になっていると判断しているのか、その辺は不明ですが、やはり新聞では正しい表現にしてほしかった(です?)と思います。
実は、私は国語教師としての後ろ半分くらいの間、ずっとこういう「です」の使い方に悩まされてきたのです。
もう20年くらい経つのでしょうか、国語という教科の中に「国語表現」という科目ができました。必履修になったのはたしか2003年からだと記憶していますが。
この科目は、日本語の正しい使い方を身につけることが目的で、まさに国語の基本なのですが、そのためには、当然多くの名作の美しく優れた表現に触れるということも大切な要素になってきます。
ところが、この科目ができた背景には、若者の文章力の低下を嘆く声があったので、どうしても、小論文や作文対策のための科目のような位置付けとなって、名文の鑑賞とか、俳句や川柳をひねってみるとか、スピーチの練習などで楽しみながらという授業にはなりませんでした。ちょうど大学受験に推薦入試が広がり、ペーパーテスト中心から小論文や面接による選考が増えてきた時期とも重なっていたので、生徒も、作文を書いて添削してもらえる時間だと思って授業に臨んできました。
もっとも、作文を読んで点数を付けるだけなら話は簡単なのですが、赤ペンを持って添削し、コメントを入れるとなると、これがけっこう時間がかかるのです。返却したあと書き直して提出させたりすればなおのことです。
ということで、国語の教師の机の上は、ちょっと気を抜いていると、すぐに作文の山ができてしまうようになりました。出張に出るのも億劫、有給休暇を取っても、翌日の机の上を想像すると気が重くなってしまうという状態でした。
もちろん、生徒の作品を読むのは仕事としてはそれなりに楽しい時間でもありました。ただ辛いのは、前回の「ら抜きことば」もそうですが、上記の「です」の使い方が何度直しても何度説明しても、次々と目の前に現れて来ることでした。きっと、生徒はふだんから誤用に慣れていて危機感が乏しいからなのでしょう。
もう一つは自己推薦書や志願理由書の類です。これらの書類は、国語の教師のところに回ってくる前に、担任が一度目を通しているのですが、困るのは、こういう誤用が訂正されないままやって来ることでした。大人の目を一度通過したものを訂正すると、「次も国語の先生に見てもらわないと」という気持ちがさらに強くなります。やがて、教師の記載する推薦書などの点検も仕事に入って来るようになり、そして恐れていたとおり、大人も誤用している。コピーしたものに訂正をしてお返しするのですが、時に怪訝な表情が返って来ることもあり、とてもやりきれない気分に陥ったりします。
うろ覚えで申し訳ありません。大野晋か丸谷才一か、何かの本で「です」の使い方について、「基本的には誤用であるが、話しことばとしては認めてよいのではないか」というような見解を読んだことがあります。もう20年くらい前のことです。しかし、一般の人、特に言文一致のメールに慣れている若者に対して、「話しことばとしては正しいが、作文の時はダメだ」という指摘は、現実には全く無力な言い方にしかなりません。
「時の流れだ、もう、気に留めないようにしよう」という気分になった時もありました。そこで、ある大学の文学部の教授のところへ電話で質問をしてみたのです。単刀直入に「入試の小論文にこういう表現がある場合、減点の対象になるか」という質問です。答えは「減点だと一概に言える時代ではないが、複数の人が採点する場合はケースによってマイナスになることもあるかもしれない」ということでした。
やはり退くに退けないのでした。そして、細かいことにこだわる口うるさい教師と言われるのを覚悟するしかなくなったのです。
それから十年余り、とうとう大手の新聞の紙面にも大手を振って登場しているのを見て、今日もまた、ちょっとだけ「正しい日本語」とかにこだわってしまった次第です。
今回は、表記のタイトルで「ことばあれこれ」の記事にするのですが、もしかすると、「何を話題にするのだろう」と思われる方がいるかもしれません、特に若い世代の人は。
「です」ということばは、断定の助動詞「だ」の丁寧語です。そこで「です」を「だ」に変えてみてください。「うれしいだ」「楽しかっただ」とは言いませんよね。
赤塚不二夫の漫画に「これでいいのだ」というセリフがあります。このように、断定の助動詞「だ」「です」の前に「の」を入れると違和感がなくなります。「うれしいのです」「楽しかったのです」というように。
でも、「ボーナスが出てうれしいのです」や「孫と過ごして楽しかったのです」と言った時に、どうも「の」の入った表現がしっくりしないという状況もあります。こういう時は「うれしいと(うれしく)思います」とか「楽しいひとときでした」「楽しい時間が持てました」くらいにするのがよさそうです。
あと、文末に「な」や「ね」や「よ」などの終助詞を置くという手もあります。「なかなか渋いですな」「この花きれいですね」「けっこう楽しいですよ」というように。でも、これらは話しことばとしてかろうじて成り立っているとしか思えません。
まず、文法的な説明をしておきましょう。
一つ、断定の助動詞は「良い天気だ」とか「私は日本人です」のように、名詞に接続するという原則があります。
また、助詞の「の」には、「甘いのが好き」というように、体言(名詞)の代用をする「準体格」という用法があって、この「の」に接続させることもできます。「いいのだ」の「の」がそれに当たります。
要するに、「だ」や「です」は動詞や形容詞や助動詞の後に直接付くことばではなく、そして、そのことを当たり前だと思っていると、表題の「うれしいです」や「楽しかったです」という表現に違和感を覚えることになります。
上の二例のほかに、形容詞型に活用する希望の助動詞「たい」に「です」を付ける表現にもよく出くわします。「看護士になりたいです」のように。これも「だ」に変えるとおかしい言い方であることがわかります。正しくは「なりたいと思います」でしょう。
実を言うと、今回の記事は、三週間ほど前の5月22日の朝日新聞がきっかけでした。
土曜日は「be」という別刷りの紙面がありますが、その中のパズルの欄に、上記の誤用と同じ表現がありました。
拡大すると
「解きやすいです」とありますが、これは誤用で「解きやすくなります」が自然な表現だと思います。
この欄はクイズ作成会社へ下請けに出していて、新聞社ではチェックしていないのか、それとも、すでに一般に通用する表現になっていると判断しているのか、その辺は不明ですが、やはり新聞では正しい表現にしてほしかった(です?)と思います。
実は、私は国語教師としての後ろ半分くらいの間、ずっとこういう「です」の使い方に悩まされてきたのです。
もう20年くらい経つのでしょうか、国語という教科の中に「国語表現」という科目ができました。必履修になったのはたしか2003年からだと記憶していますが。
この科目は、日本語の正しい使い方を身につけることが目的で、まさに国語の基本なのですが、そのためには、当然多くの名作の美しく優れた表現に触れるということも大切な要素になってきます。
ところが、この科目ができた背景には、若者の文章力の低下を嘆く声があったので、どうしても、小論文や作文対策のための科目のような位置付けとなって、名文の鑑賞とか、俳句や川柳をひねってみるとか、スピーチの練習などで楽しみながらという授業にはなりませんでした。ちょうど大学受験に推薦入試が広がり、ペーパーテスト中心から小論文や面接による選考が増えてきた時期とも重なっていたので、生徒も、作文を書いて添削してもらえる時間だと思って授業に臨んできました。
もっとも、作文を読んで点数を付けるだけなら話は簡単なのですが、赤ペンを持って添削し、コメントを入れるとなると、これがけっこう時間がかかるのです。返却したあと書き直して提出させたりすればなおのことです。
ということで、国語の教師の机の上は、ちょっと気を抜いていると、すぐに作文の山ができてしまうようになりました。出張に出るのも億劫、有給休暇を取っても、翌日の机の上を想像すると気が重くなってしまうという状態でした。
もちろん、生徒の作品を読むのは仕事としてはそれなりに楽しい時間でもありました。ただ辛いのは、前回の「ら抜きことば」もそうですが、上記の「です」の使い方が何度直しても何度説明しても、次々と目の前に現れて来ることでした。きっと、生徒はふだんから誤用に慣れていて危機感が乏しいからなのでしょう。
もう一つは自己推薦書や志願理由書の類です。これらの書類は、国語の教師のところに回ってくる前に、担任が一度目を通しているのですが、困るのは、こういう誤用が訂正されないままやって来ることでした。大人の目を一度通過したものを訂正すると、「次も国語の先生に見てもらわないと」という気持ちがさらに強くなります。やがて、教師の記載する推薦書などの点検も仕事に入って来るようになり、そして恐れていたとおり、大人も誤用している。コピーしたものに訂正をしてお返しするのですが、時に怪訝な表情が返って来ることもあり、とてもやりきれない気分に陥ったりします。
うろ覚えで申し訳ありません。大野晋か丸谷才一か、何かの本で「です」の使い方について、「基本的には誤用であるが、話しことばとしては認めてよいのではないか」というような見解を読んだことがあります。もう20年くらい前のことです。しかし、一般の人、特に言文一致のメールに慣れている若者に対して、「話しことばとしては正しいが、作文の時はダメだ」という指摘は、現実には全く無力な言い方にしかなりません。
「時の流れだ、もう、気に留めないようにしよう」という気分になった時もありました。そこで、ある大学の文学部の教授のところへ電話で質問をしてみたのです。単刀直入に「入試の小論文にこういう表現がある場合、減点の対象になるか」という質問です。答えは「減点だと一概に言える時代ではないが、複数の人が採点する場合はケースによってマイナスになることもあるかもしれない」ということでした。
やはり退くに退けないのでした。そして、細かいことにこだわる口うるさい教師と言われるのを覚悟するしかなくなったのです。
それから十年余り、とうとう大手の新聞の紙面にも大手を振って登場しているのを見て、今日もまた、ちょっとだけ「正しい日本語」とかにこだわってしまった次第です。