チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

鎮魂の祈り

2009-01-17 21:02:55 | 身辺雑記
1月17日(土)

 あれから14年。「阪神淡路大震災」という名称は当時の閣議で決めた俗称で、気象庁の正式名称は「兵庫県南部地震」です。「阪神淡路」だと明石が含まれないということで、こちらでは後者の名称を使うそうです。

 震災からしばらく5時46分で止まったままになっていた明石天文科学館の時計台
      
  
 それはさておき、明石に来てから、心の隅に「1月17日はどうしようかな」という思いがありました。

 先週はKAZUが風邪気味で、早めに迎えに行ったり、木曜日は午前中に引き取ってほぼ一日そばにいました。
 そうこうしてうっかりしているうちに、気がつけば17日、KAZU一家は完全休養になったので、私は神戸の「慰霊のつどい」に行くことにしました。

 会場は市役所の隣の公園です。献花をして、ろうそくに明かりを灯しました。
  

   

    


   鎮魂のメロディ重たく震災忌   弁人


 そっと涙をこらえている人、ハンカチを顔にしてしゃくりあげている人もいます。そういう光景をここぞとばかり映像に収めるカメラマン、メディアのあり方をまたまた考えさせられました。


 ところで、当時、娘(KAZUの母親)は大学生でした。札幌にいたのですが、ボランティアで避難所に出向きました。ひと月以上連絡がなくずいぶん心配しましたが、ある日、神戸の小学校の校長先生から丁重にお礼の電話をいただきました。「ゆっくり休ませてあげてほしい」という話だったのに、娘は次の避難所へ行ってしまい、なかなか帰って来ませんでした。
 帰ったあと、関空から現場に行き着くまでの苦労話はしましたが、避難所での様子は「その場にいなかった人には何も話せない」のひと言でした。とても説得力があるように思い、私はそれ以上何も聞きませんでした。
 
 二年後に、三浦半島地区の「教育フォーラム」を企画した時に、避難所になった神戸の高校の先生を招きました。貴重な話をたくさん聞くことができ、娘のひと言から察した状況をかなり理解できました。


 犠牲者の80パーセントは建物の倒壊によるものです。動けずに焼死したした人が多くいて、その地獄絵をまのあたりにして親を失った子どもたち、もう二十歳くらいでしょうか。町で若者の姿を見ると、ときどきそんなことを思い胸が痛くなります。


   駆けめぐる思いが沈む冬の空   弁人


 今日は橋のイルミネーションも白一色です。
    
コメント (2)
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