チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

「平成」もあと僅かの中で、一抹の気がかり

2019-03-26 17:35:02 | つぶやき
3月26日(火)

 新しい元号の発表まで一週間を切りました。

 まあ、元号が変わっても、個人的には、自分の人生に影響はないと思いつつ、日本人というか日本社会全体には「新時代到来」という、良きにつけ悪しきにつけ、気分的な高揚感が生まれるのは否めません。

 実を言うと、私は自分の生まれた年は「昭和24年」という認識が強く、「1949年」生まれという意識は薄いのです。どうやら、人生の前半分?昭和の終わる64年までの自分史の流れは元号で把握しているようです。ところが、なぜか1990年から、つまり平成2年からは西暦でないと振り返られなくなっています。
 おそらく、平成年に(19)88をプラスすると西暦年になり、2000年以降は平成年から12をマイナスすると西暦の下二桁になるという計算が少々煩わしくてそうなったのだと思います。
 結果、自分の誕生日や就職した年はもちろん、妻君や子どもの誕生日も家族の出来事も、40才の頃までは「昭和○○年」と把握しているのに、平成になってからの出来事、つまり孫の誕生日や成長の過程は西暦で認識していて、どうみても一貫性がないと思いつつ、「あれは平成何年?」と言われると戸惑ってしまうのです。

 5月1日からの新しい元号の元年が西暦2019年ですから、今後は西暦年から18を引くと新元号年になるわけですが、昭和から三代生きる者にとっては、今後両方を認識して行くのはやはり難しいでしょう。
 もしかすると、平成生まれで自分史を元号年で捉えていた若者も、これからは私と同じように、人生の途中から西暦で認識するようになるのかもしれません。

 ところで、私が30才の頃に成立したのですが、我が国には「元号法」という法律があります。
 本則・附則とも二行(二文)ずつの、きわめて短く簡略な法律で、西暦より元号を重視せよとかいう指示めいた内容は全くありません。
 したがって、ここで「私は最近、西暦しか使いません」と言っても何ら問題は生じないわけですが、「日本では元号を定めますよ」という法律があるということは、全く無視をすると「おいおい、あんた日本人じゃないのか」ということになりかねないという危惧もあります。
 ということで、元号法の成立に当たっては、それなりに侃々諤々のやりとりがあったのですが、国民に強要・強制するものではないという了解のもとで成立したという事情があります。
 その後、今から20年前に成立したいわゆる「国旗・国歌法」も同様の了解のもとで定められたのですが、現実には、多くの式典で「国歌演奏」が「国歌斉唱」に変わり、ただ立っているだけだと「歌っていないじゃないか」と咎められる状況が生じていることも事実です。

 話が「国旗」とか「国歌」とかに及ぶと、急に重々しい雰囲気が漂って来てしまいますが、これは仕方ありません。どこかで「天皇」という存在と絡んでいるからです。
 そういう意味では、法律に「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」とありますから、「元号」というのは「国旗・国歌」以上に、ストレートに「天皇」に関わっているということになります。
 そして、このような事柄に関して、日本国民の根底には、意見を差し控えるという意識が強くあって、ましてや議論するなんてことは思いもしないということになります。議論を突き詰めて行くと、最後は天皇制の是非というところに行き着いてしまうことがなんとなく見えているからでしょう。
 国会でも同じなのです。先ほど「元号法」のところで「侃々諤々」と言いましたが、それはあくまで法案を出すか出さないかという局面での「やりとり」であって、提出された後は、ほとんど「議論」の時間はありませんでした。

 そんなことを踏まえながら、今回の「改元」の話題に戻します。

 報道では、案を専門家に委嘱したとか、発表はどうこうするとか、今のところ、決定の手順とか手続きとかについては内閣官房長官が説明の矢面に立っています。そういえば「平成」の元号を発表したのも、お馴染みの影像のとおり、小渕恵三元総理で当時の内閣官房長官でした。
 これには、法律に「元号は、政令で定める」という根拠があります。要するに、内閣が決めて国民に知らせるということですから、今回の発表が前回同様に官房長官になるのか、やる気満々の感じの総理大臣になるのか、それはどうでもよいとして、最終的な決定権は内閣にあるというところが重要です。

 そこで、今回のテーマ。タイトルの「一抹の気がかり」について。

 非を問われても、うしろ指を指されても、「いっさい関わっていない」と言いとおし、「忖度」ということばでお茶を濁すことがお得意の安倍総理。
 まさか元号案を提出する専門家の方々が忖度することはないでしょうが、元号案の中に「安○」とか「○安」とかの名称が入っていて、内閣がそれを選んだとしたら、それはトップの意向でしょうか、はたまた忖度でしょうか、とにもかくにも、笑ってしまうというより、虫唾が走る感じになってしまいそうです。いやな予感。

 そもそも、「元号」が国民の生活に根ざす大切なものであるならば、国民主権の民主主義国家なのですから国民投票かなんかで選べばいいはずなのです。でも、くどいようですが、「元号」というのはそういう類のものではありません。オリンピックのエンブレムやマスコットなどと同様に考えるなんて論外。一国民が関わるなんて畏れ多い、天皇の代替わりに伴って生まれる特別なものなのです。
 したがって、「案を提出する専門家の名前も、決定した名称の提案者も明らかにしない」という官房長官の弁も至極当然なのです。しかし、最後に決めるのは内閣というところがミソで、そのメンバーは隠しようもありません。

 大変ですよね、閣僚の方々。そんな大ごとに関わることになるのですから。もし正常な神経の持ち主なら、そのストレスは如何ばかりか、察しても余りあるものがあります。
 ところがですよ、今の内閣、信じられない言動で見識を疑われる方もいらっしゃるようで、さすがに心配になります。公表した後に「忖度?」などと言われかねないような名称に、もしなったとしたら、私個人にはなんら関係ないことなのかもしれませんが、ちょっと気がかりになっています。

 本当は、ブログにこういう記事を載せるのは本意ではないのですが、人生、イヤな予感が的中してしまうこともあります。
 ところが、ブログに関して言えば、予想や予感を載せると見事にはずれるという経験則があります。きっと「はずれた!」という思いは強く残るからでしょう。
 実は、二・三日前からいやな予感が浮かんでしまい、なかなか消え去ってくれないのです。あげく、虫唾の走るような思いをしたくないという気分が強くなってきたので、ブログに載せれば、来週、気持ち良くお花見に行けそうかなということでつぶやいてみました。


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