チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

明石の夏休み(1)「岩屋神社の夏の神事」

2014-07-22 15:02:25 | 明石風物
7月22日(火)

 三連休の最終日の昨日、関西に「梅雨明け」が発表されました。

 今日は朝から蒸し暑く、いかにも不快指数の高そうな空模様、「梅雨明け何日」と言われるようなすっきりとした晴天にはなっていません。でも、たしかに先週の半ばからかなり暑くなって、時折広がる青い夏空、早朝からの蝉しぐれ、近所の庭に咲いた百日紅の花と、夏いよいよの感じがあふれていました。

 毎年、この連休をはさんで、KAZU君の両親の会社が振り替え休業となり、何日か保育園のお迎えがなくなります。そんなこともあって、この時期はいつも逗子に帰っているのですが、最近は、明石での都合ではなく、大船の病院の通院に合わせて逗子に帰るので、家族旅行へ出かけたKAZU君一家を見送ったあと、明石で束の間の一人気ままな数日間の夏休みとなりました。

 20日の日曜日は、明石の夏の風物詩、夏の到来を告げる「おしゃたか舟神事」というお祭りがありました。

 神事が行われるのは
  明石漁港のそばにある岩屋神社
  

 明石には、全国的に有名な大きな神社こそありませんが、歴史的にかなり古い縁起を持つお社がいくつかあります。
 保育園のある稲爪神社は推古天皇の時代、人麻呂を祀った柿本神社は文武天皇の頃と言われています。住吉神社となると、神功皇后の三韓征伐にまつわるエピソードが起源ですから、ほとんど伝説の時代です。

 ところで、今回の岩屋神社。
 社伝によると、成務天皇の時となっています。成務天皇と言えば、神功皇后のお子さまの15代応神天皇の2代前の帝。その天皇の勅命により創祀されたと伝えられていますから、これも伝説の世界です。

 勅命により、明石浦の六人衆が新しい舟を仕立てて淡路島の岩屋から神を勧請する際、海がたいそう荒れて、明石浦の浜に舟を着けることができず、西方の赤石(明石の名の起源)のある林崎海岸へひとまず漂着。そこで海難防止と豊漁を祈ったところ、明け方には海も静まり、無事に神様を現在の地にお迎えすることができたということです。
 この時、地元の住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と、泳ぎながら舟を押して岩屋の地に着いたという話が伝えられているのです。

 そして、この伝説を再現するかのような神事が現在も行われていて、市の無形民俗文化財に指定されています。名を、「よくいらっしゃいました。おいでくださいました。」の意の「おしゃたか舟神事」と言います。
 明石暮らしを始めてしばらくしてから、この神事のことを知り、ぜひ見ておきたいと思ったのですが、前述のとおり、7月の第三日曜はいつも逗子に帰っていて、その機会を逸していました。

 さて、その第三日曜日。お社は明石駅から南西へ7~8分歩いたところにあります。

 社殿の前に並ぶ
  「おしゃたか舟」
  

 祭式が執り行われたあと、宮司と天狗の猿田彦、それに、おしゃたか舟をかついだ若者衆が登場。

 社殿の前にある
  「茅の輪」を順番にくぐり
  
   

  そのまま、100mちょっと先の明石浦へ向かいます
 


 海には
  きれいに飾られた船が待機
  

 ここで
  もう一度祭式が行われ、
  

 参拝者は大人も子どもも皆
  小型の「茅の輪」をくぐります
  

 その後、
  餅まきも行われました
  

 宮司をはじめ、総代や関係者が船に乗り込み、
  出航すると
  

 若者が「おしゃたか舟」を海へ放って、
  自らも飛び込みます
  

 「おしゃたかー」と言いながら
  泳いで行きます
  

 防波堤からはみ出すのは
  さすがに危険です
  
 潮に流される前に、若者も「おしゃたか舟」も船に上げられて、

 西へ向かって、赤石のある
  林崎海岸まで行って来るそうです
  

 なにしろ潮流の激しい明石海峡、小舟で淡路から横断するのは簡単ではありません。伝説とはいえ、お迎えした神様が、一度西の林崎海岸に漂着したというのは、なかなかよくできた話です。
 その謂われから、前日の宵宮では、神官と若者衆が林崎の海岸で禊ぎをしたそうで、その海中には、明石の地名起源となっている「赤石」があるということですから、この神事には、この地にまつわる何とも言えない歴史ロマンが漂っています。


   ちはやぶる神の代映す夏の海   弁人


コメント (2)
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