1月23日(月)
KAZU君のお家も私の部屋も所在地は明石市の大蔵谷です。最寄り駅はJR朝霧駅ですが、私の所から反対方向に歩くと、山陽電車の大蔵谷駅があります。
そして、大蔵谷駅の南側の国道2号線の海側に、明石駅方面に向かって、大蔵八幡町、大蔵町、大蔵中町、大蔵本町、大蔵天神町と、なかなか由緒ありげな地名の町並みが続きます。海抜のほとんどない海岸線に位置しますが、今はさらに南側が埋め立てられ、2号線と平行する海岸道路、そしてきれいに整備された大蔵海岸の公園が広がっています。
KAZU君の保育園がある稲爪神社も大蔵本町にあって、この地域の氏神様として町民からの厚い信仰を集めています。町の中央を東西に昔の旧西国街道が走っていて、鎌倉時代から宿場町として栄えてきたようです。
そんなわけで、保育園の送り迎えの前後には歴史を感じさせる町並みを通ることになります。私も明石の駅に出る時に、電車を使わずにカメラ片手にぶらぶら歩いて行くことがよくあります。
昔の家屋を彷彿とさせる格子。とても端正な趣です
宿場町格子の中に火鉢かな 弁人
17年前の大地震でずいぶんと家並みも変わったようですが。
二階の軒下にうさぎの絵。
「兎屋」という屋号だったのでしょうか
写真拡大
地名のとおり、
立派な蔵のある家もたくさん残っています
この家は玄関の脇にお地蔵様が祀ってあります
路地に入ると、お店一軒だけのアーケード
「大蔵天神町」という地名の由来?
保育園のある稲爪神社から国道2号線側の鳥居を出てすぐ西側、ちょうど大蔵天神町のあたりの国道の真向かいに「休天神社(やすみてんじんしゃ)」という由緒あるお社があります。太宰府に下向する菅原道真がここでお休みしたという言い伝えが名前になっているようです。
休天神の隣に、
明石の銘酒「神鷹」の看板の小さな酒屋さん。
シャッターは閉まっていますが、
それにしても懐かしい文字
「ガリ版」。正式には「謄写版印刷」です。若いころの思い出が蘇ってきます。でも、懐かしいと思うのは、きっとわれわれの年代までなんでしょうね。
思わず筆が進んでしまいます。
学生のころ、文集や資料やパンフレットなんかはみんなガリ版刷りで作りました。就職してから10年弱、1970年代までは教材もテストも全部ガリ版刷りでした。
就職が決まった時に、まず用意したのはヤスリ(鉄板)と鉄筆。たぶん横浜だったと思います。印刷用品の専門店でちょっと値の張るものを買って気合いを入れたのを覚えています。
使うヤスリは、文字は「方C」(破けにくく初心者に最適)で、線画は「斜B」で・・・と言っても、今の人は知らないでしょうね。
「できたぁ」とご満悦になって一服。煙草に火をつけたマッチの先が原稿の上に落ちてあわてたことがある、とにかく燃えやすい蝋(ろう)原紙。
「3ミリ方眼にきちんと読める字が書けなければ一人前じゃない」という先輩もいましたが、手先の不器用な私はもっぱら4ミリ原稿罫を使っていました。
小学校6年の時に早逝した父の遺品の中に、「四国原紙」という蝋原紙があるのを見つけて使ってみたところ、職場に用意されているものとは格段の品質の良さ。これもすぐ専門店へ行って調達しました。
1978年の春に高知を旅行した時、高知城や桂浜は駆け足で回って、仁淀川のほとり、和紙で有名な伊野町にある「四国謄写堂」という「四国原紙」の会社を訪れた思い出も懐かしい。きらきら輝いていた仁淀川の流れと製紙工場の屋根。もしかしたら、逗子の我が家に写真は残っていないかと、ふと探しに帰りたくなります。
とにもかくにも、当時は国語教師という仕事柄、印刷には少々こだわりとプライドがあって、プリントがきれいに印刷できると、「どう、グーテンベルクもびっくりじゃん」などと冗談を言ったりしていました。
70年代半ばに「ボールペン原紙」なるものも出てきましたが、満足感全くなく、ずっとガリ版に頼っていました。やがて、黒いインクのロットリングペンで書いた原稿を「トーシャファックス」という機会で印刷する時期を経て、ワープロが登場。そして「リソグラフ」というすばらしい性能の印刷機が現れて、ヤスリも鉄筆もお蔵入りとなったのです。
大寒の夜に蘇る往にし日々 弁人
「団塊の世代って、暮らしの上でも仕事の場でも、ほんとうに日々激しく変化する中で生きてきたんだな」とつくづく思います。
まだ「スマホ」は使えませんが、60を優に越えた私がですよ、パソコンに向かってローマ字変換で文章を綴っているんですから。
そういえば、アメリカの「コダック」社が倒産したようで。かつてフィルムもずっとコダックにこだわっていたのですが、今は使いませんものね。
KAZU君のお家も私の部屋も所在地は明石市の大蔵谷です。最寄り駅はJR朝霧駅ですが、私の所から反対方向に歩くと、山陽電車の大蔵谷駅があります。
そして、大蔵谷駅の南側の国道2号線の海側に、明石駅方面に向かって、大蔵八幡町、大蔵町、大蔵中町、大蔵本町、大蔵天神町と、なかなか由緒ありげな地名の町並みが続きます。海抜のほとんどない海岸線に位置しますが、今はさらに南側が埋め立てられ、2号線と平行する海岸道路、そしてきれいに整備された大蔵海岸の公園が広がっています。
KAZU君の保育園がある稲爪神社も大蔵本町にあって、この地域の氏神様として町民からの厚い信仰を集めています。町の中央を東西に昔の旧西国街道が走っていて、鎌倉時代から宿場町として栄えてきたようです。
そんなわけで、保育園の送り迎えの前後には歴史を感じさせる町並みを通ることになります。私も明石の駅に出る時に、電車を使わずにカメラ片手にぶらぶら歩いて行くことがよくあります。
昔の家屋を彷彿とさせる格子。とても端正な趣です
宿場町格子の中に火鉢かな 弁人
17年前の大地震でずいぶんと家並みも変わったようですが。
二階の軒下にうさぎの絵。
「兎屋」という屋号だったのでしょうか
写真拡大
地名のとおり、
立派な蔵のある家もたくさん残っています
この家は玄関の脇にお地蔵様が祀ってあります
路地に入ると、お店一軒だけのアーケード
「大蔵天神町」という地名の由来?
保育園のある稲爪神社から国道2号線側の鳥居を出てすぐ西側、ちょうど大蔵天神町のあたりの国道の真向かいに「休天神社(やすみてんじんしゃ)」という由緒あるお社があります。太宰府に下向する菅原道真がここでお休みしたという言い伝えが名前になっているようです。
休天神の隣に、
明石の銘酒「神鷹」の看板の小さな酒屋さん。
シャッターは閉まっていますが、
それにしても懐かしい文字
「ガリ版」。正式には「謄写版印刷」です。若いころの思い出が蘇ってきます。でも、懐かしいと思うのは、きっとわれわれの年代までなんでしょうね。
思わず筆が進んでしまいます。
学生のころ、文集や資料やパンフレットなんかはみんなガリ版刷りで作りました。就職してから10年弱、1970年代までは教材もテストも全部ガリ版刷りでした。
就職が決まった時に、まず用意したのはヤスリ(鉄板)と鉄筆。たぶん横浜だったと思います。印刷用品の専門店でちょっと値の張るものを買って気合いを入れたのを覚えています。
使うヤスリは、文字は「方C」(破けにくく初心者に最適)で、線画は「斜B」で・・・と言っても、今の人は知らないでしょうね。
「できたぁ」とご満悦になって一服。煙草に火をつけたマッチの先が原稿の上に落ちてあわてたことがある、とにかく燃えやすい蝋(ろう)原紙。
「3ミリ方眼にきちんと読める字が書けなければ一人前じゃない」という先輩もいましたが、手先の不器用な私はもっぱら4ミリ原稿罫を使っていました。
小学校6年の時に早逝した父の遺品の中に、「四国原紙」という蝋原紙があるのを見つけて使ってみたところ、職場に用意されているものとは格段の品質の良さ。これもすぐ専門店へ行って調達しました。
1978年の春に高知を旅行した時、高知城や桂浜は駆け足で回って、仁淀川のほとり、和紙で有名な伊野町にある「四国謄写堂」という「四国原紙」の会社を訪れた思い出も懐かしい。きらきら輝いていた仁淀川の流れと製紙工場の屋根。もしかしたら、逗子の我が家に写真は残っていないかと、ふと探しに帰りたくなります。
とにもかくにも、当時は国語教師という仕事柄、印刷には少々こだわりとプライドがあって、プリントがきれいに印刷できると、「どう、グーテンベルクもびっくりじゃん」などと冗談を言ったりしていました。
70年代半ばに「ボールペン原紙」なるものも出てきましたが、満足感全くなく、ずっとガリ版に頼っていました。やがて、黒いインクのロットリングペンで書いた原稿を「トーシャファックス」という機会で印刷する時期を経て、ワープロが登場。そして「リソグラフ」というすばらしい性能の印刷機が現れて、ヤスリも鉄筆もお蔵入りとなったのです。
大寒の夜に蘇る往にし日々 弁人
「団塊の世代って、暮らしの上でも仕事の場でも、ほんとうに日々激しく変化する中で生きてきたんだな」とつくづく思います。
まだ「スマホ」は使えませんが、60を優に越えた私がですよ、パソコンに向かってローマ字変換で文章を綴っているんですから。
そういえば、アメリカの「コダック」社が倒産したようで。かつてフィルムもずっとコダックにこだわっていたのですが、今は使いませんものね。