チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

ドラマさまざま-甲子園

2010-08-13 09:35:43 | スポーツ観戦等
8月13日(金)

 7月末に逗子の家で見た神奈川の決勝戦。東海大相模が横浜高校を下した試合でしたが、33年ぶりの甲子園出場を決めた東海大相模の喜びぶりに胸を打たれました。

 さて、7日(土)に開幕した2010年の夏の甲子園。
 気になる東海大相模が登場する大会第5日(11日)に、この夏初めて甲子園球場に出向きました。

  新装後に植えられた甲子園名物の「蔦」も少しずつ復活
  

 そういえば、先日ナイターを見に来た時は目に入りませんでしたが、やはり高校野球になると気分も違います。

  昨年の夏は工事中の建物の壁面にラッピングされていた「蔦」の写真
  



    白熱の球場の外の蝉時雨   弁人



 ところで、この夏なぜ東海大相模に注目してしまうのかというと。

 1970年代、神奈川では東海大相模が本当に強かった。
 福岡の炭鉱の町から甲子園にやって来た三池工業が全国優勝したのは、たしかオリンピックの翌年だったと思います。そのチームを率いた原貢監督が東海大相模にやって来て打撃のチームを作り上げ、69年に甲子園に初登場、その翌年には、湘南高校、法政二高に続く神奈川県勢三校目の全国制覇を成し遂げたのです。74年には子どもの原辰徳が入学。その後の3年間は「父子鷹」として話題を集め、甲子園を沸かせたものです。
 当時は横浜高校や横浜商業など、神奈川の実力校が東海大相模の厚い壁に跳ね返されて悔しい思いを味わわされることが多く、判官びいきだった私にとっては、あまり好きなチームでなかったこともたしかです。。
 とは言っても、あの懐かしい時代から30年以上の月日が経ちました。原辰徳が東海大に進み、父親も一緒に大学の指導者へ転身して、次第に夏の甲子園から姿を消してしまっていたのです。

 ふつう33年ぶりと言うと、よく「古豪復活」と言われたりしますが、東海大相模の場合は当てはまりません。実はこの間、センバツには6回出場し、優勝と準優勝に1回ずつ輝いています。夏も神奈川の決勝戦には7回も進出しています。つまり、力はあるのに、なぜか夏の甲子園には今一歩のところで届かないというもどかしさを味わい続けてきたのです。
 今年の春のセンバツも出場していて、それも優勝候補の一角に挙げられていたのに、初戦で敗退という屈辱を味わいました。

 そんなわけで、今年の夏は甲子園で春の雪辱を果たすこと、そして、そのためにはまず神奈川大会で32年間の無念を晴らさなければならないという重荷を背負っていたのです。
 甲子園の出場を決めた後のインタビューで万感の思いが込み上げた門馬監督、センバツの優勝監督にして、あふれる思いと涙でことばになりませんでした。

 さあ、どんな試合を見せてくれるだろうかと期待していましたが、勝てば34年ぶりの校歌ということもあって、背負っているものが少し重すぎたようです。ベンチもエースの一二三投手もやや緊張気味。とても東海らしいスマートな試合にはなりませんでした。

  それでも、とりあえず三回戦へ進出
  

 ところで、東海大相模のゲームは第三試合でした。球場には午前中の第一試合の途中で着きましたが、お盆休みに入っているのでしょうか、水曜日にしてこの大観衆。
  
 内野席の一角に陣取るのがやっとという状態でした。

  第一試合は九州勢同士のつば競り合い
  
 今大会初の延長戦、それもサヨナラゲーム。10回の裏、一死一、三塁でスクイズを外した投球が暴投となりました。大分工のエース田中君の唖然とした表情。もっとすっきりとした決着であってほしかったという感想。

  第二試合は島根の開星が押し切るかと思いきや
  
 終盤にとんでもないドラマが待っていました。
 仙台育英が九回の表に1点取ってなお二死満塁の一打逆転の場面で平凡なセンターフライが。バッターは悔しがり、バッテリーは両手を掲げてガッツポーズ。誰もがゲームセットと思った瞬間、センターが落球し逆転してしまいました。
 その裏の開星。二死一、二塁で会心の打球が左中間へ。これまた誰もが逆転サヨナラと確信したところで、レフトの超ファインプレーでゲームセット。

 最後は美技で終わりましたが、二試合ともミスが絡んでの終盤のドラマ。こういうこともあるのかとあまりすっきりしない気分になりました。


    野分風女神の心も揺るぎたり   弁人



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