チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

大和-飛鳥の里にて

2010-07-01 19:26:06 | お出かけ・散策
7月1日(木)

 先日、妻君に誘われて奈良の南の明日香村を歩きました。

  まず歴史館で基礎知識をおさらいして
  

  壁画で有名な高松塚古墳へ
  

 壁画が見つかったのは、私が就職してまもなくのことだったと思います。大学時代、奈良の橿原から出てきた友人がいて、卒業後に会った時に興奮気味に話をしていたのを覚えています。恥ずかしながら、その頃の私は「青龍」とか「白虎」とか言われてもまだピンとこない若者でした。
 壁画は発見当初こそ鮮やかな色彩でしたが、人の目に触れて外気が流入したため、一気に劣化が進み、現在修復中。古墳の脇の壁画館で模写された復元図にお目にかかりました。
 「四神の絵」というと、最近ではキトラ古墳の壁画が一躍脚光を浴びています。こちらのほうは5月から6月にかけて飛鳥の資料館で一部公開されていましたが、大変な人出だったようです。両方の壁画とも、修復後には一般に公開されるのではないかと期待をして高松塚古墳を後にしました。

〈参考までに〉
 
(方角) (季節) (色)  (動物)
 東    春    青    龍
 南    夏    赤(朱) 雀
 西    秋    白    虎
 北    冬    黒(玄) 武(亀と蛇の合体したもの)
のセットを頭に入れておくとわかりやすくなります。

 例えば、皇太子を「とうぐう」と言いますが、その表記は「東宮」「春宮」「青宮」とどれもあります。「青春時代」「北原白秋」「朱雀門」「白虎隊」「玄武洞」など、上の文字の組み合わせの語もたくさんあります。江戸時代の国学者の荷田春満の名前は「あずままろ」と読みます。大相撲の土俵の四隅に垂れている房も上の4色で、ラジオのアナウンサーが「白房下へ押し出しました」などと言います。
 四神の絵が揃っているいるのに「キトラ古墳」と言いますが、初めに発見されたのが北の「亀」と西の「虎」だったからでしょう。


  次は石舞台古墳
  

 のどかな丘陵に置かれた重そうな石。考えてみると、なんともミスマッチな光景なのですが、歴史の重みが伝わってくるいかにも飛鳥らしい光景です。

  近くに行くとなかなかの迫力
  

  石室に入れるようになっています
     

  少しひんやりとした感じ
       

 古墳の埋葬者を特定するのはなかなか難しそうですが、ここは蘇我馬子の墓と言われています。馬子は物部氏との抗争の中で蘇我氏の全盛時代を築いた人物ですが、そういう人の眠っていたお墓の中に入るというのは、あまりいい気持ちではありませんね。


 石舞台の北西にあるのが甘樫の丘。
 ここは馬子の子と孫の蘇我蝦夷・入鹿親子が邸宅を構えていた場所と言われています。標高148mの丘ですが、展望台まではけっこう汗をかかなければなりません。しかし眺望は抜群です。足下に明日香村を一望できるのはもちろん、振り返ると、西に葛城・金剛山系、その右に二上山、遥かに生駒山。そして間近には、大和三山が箱庭のように置かれています。

  畝傍山の後ろ遥かに二上山
  

  左に耳成山、右が天の香具山
  


 麓に下りて飛鳥川沿いを北に歩くと雷丘(いかづちのおか)があります。
  

  -大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも-

 これは、天皇を中心とする中央集権国家を礼賛した、いかにも宮廷歌人柿本人麻呂らしい歌ですが、いったいどんな所なのかと歩を進めていくと、まさかと思うくらい小さい古墳のような緑のかたまりの丘が現れました。

  丘に入る道は倒木の枝が通せんぼ
  

  かき分けて登っても、一面の藪の中に入るだけ
  

 こういう散策になるのも飛鳥散歩の味わいなのかもしれません。と思いながら汗を拭っていると、どこからともなく「トンテントテタカ」の鳴き声が聞こえてきました。


    いにしへの哀しみ知るや不如帰   弁人


コメント
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