チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

'09夏が終わって

2009-09-03 23:58:23 | 身辺雑記
9月3日(木)
  (※ まず、音量を下げてからクリックです。すいません)

   

 都市対抗野球の観戦は、応援のボリュームに慣れないと、とても集中して見ることはできないのです。
 (東京ドームでの話題はこの記事の後のほうです)


    幼子の面影も秋の風の中    弁人

 たとえば孫のKAZUが離れたところにいて、この夏に久しぶりで対面したとしたら、それは大きな思い出になったことでしょう。
 でも、KAZUはいつでも会えるところにいたので、今回の記事は、その他の件をいくつか。


 ○ まず初めは、甲子園でのもう一つの出来事。

 私は長いこと高校で野球部の指導をしてきました。そう、今から26年も前のことになってしまうのです。その時の3年生というと、もう四十代も半ばになるかと思いますが、中心選手、キャッチャーで3番バッターだったK君が甲子園で主審(球審)を勤めました。

 彼は数年前から塁審として甲子園の舞台に登場していました。春は毎日新聞、夏は朝日ですが、朝刊にその日の審判団が掲載されるので、確認したあと、テレビ画面にくぎ付けになったり、もちろん球場でも、何回か直接見てきました。
 今年はセカンドの塁審を何回か務めていました。雨で二回流れた高知-如水館戦の担当だったので、二日目から三日続きの出番で、暑い中、ほんとうにご苦労さまのひと言でした。

 19日の水曜日。三回戦の最終日。テレビで第一試合に出てないことを確認してから、駅で新聞を求めて珈琲店に入りました。なーんと、第三試合の最初に彼の名があるのです。たぶん主審は初めてではないか、デビュー戦だとしたら、テレビじゃ失礼でしょう。というわけで、さっそく夕方の保育園のお迎えはキャンセルにして甲子園に向かいました。

  

 結果は・・、そりゃあ、(こういうの、見事な「何さばき」というのでしょうかね)もちろん無難に。だいいち何かあったら大変ですよね。ただ、私も力が入っていたのか、ちょっと試合時間が長く感じました。

 そう、K君が三年生だった時、本当にいい選手だったんです。四回戦で第一シード校に惜敗しましたが、指導者が未熟でなかったら、あと二回ぐらいは勝てたのです。そうしたらレベルの高い神奈川県でベスト8だったなあと、過ぎ去ったことなのに、私はしばらくの間、勝手に絵に描いた餅を眺めていたものです。

 卒業後は大阪の大学へ進み、そのまま関西の企業に就職したと聞いていましたが、その10年後に私の娘がその会社に入るとは。そしてその時、彼は新入社員の研修担当だったのです。そんなこともあるんですね。

 さて、甲子園が終わったあと、彼から「次のジャッジは、明石での軟式の全国大会です」というメールが入りました。実は私も明石にいるので、この大会を楽しみにしていたのです。しかし、事情があって、その前に逗子に帰ってきてしまったのでした。


    歓声も審判コールも浜風に    弁人


 ○ 二つめの話題です。

 逗子の我が家に帰ると、机上に留守中の郵便物が山になっています。この点検には、いつも数時間程かかってしまいます。
 今回、軽いのに厚ぼったくて大きめの茶封筒がありました。中にはTシャツとこんなメッセージが
   
 
 うれしいですよね。
 心の中では「ここでツキを使っちゃ、宝くじが当たらんなぁ」などと罰あたりなことを考えたりしているのですが、サイモン&ガーファンクルには思い入れがあるので、ただただ感激です。2009年の夏、思い出のTシャツになりました。


 ○ 次は、早めに逗子に帰った事情です。

 今年米寿を迎えた母が転倒し骨折。入院、そして手術にという報が入ったので慌てて帰ってきました。ということで、実は現在、ずっとお茶の水の病院通いが続いているのです。
 駅から数分の大病院。その正面玄関前
  

 まあ、病いではないので大丈夫だと思っていますが、何しろ高齢なのでリハビリがうまくいくかどうか、やはり、そのへんの状況を見るまでは気がかりなのです。

 甲子園も大詰めになってきた頃でした。選挙もあるし、そろそろ逗子に帰ろうかと思っていました。でも、明石で軟式の全国大会があるし、9月5日にある小田原の「外郎売の口上大会」に顔だけでも出したいとか思って、ちょっと躊躇していたのです。そんな時の知らせでした。なんというタイミングでしょう、きっと「早く帰れ」という天のお叱りだったのかもしれません。
(ということで、ブログの記事も、実はここ三回ほど、逗子のパソコンで更新しています。)

 さて、母の状態ですが、今はだいぶ落ち着いてきて、今週はリハビリも始まり順調な回復、自分の状況も少しずつわかるようになってきたのでホッとしているところです。
 でも、なにしろ高齢で痴呆気味の症状も心配していたところに、病院に搬送されて、生まれて初めての点滴、痛み止めの処方、夜は睡眠薬の投与、そして全身麻酔の手術ときたのですから、正気になれということ事態が無理な話なのです。昨日も、「まあ、よく来たね。遠いところから大変だったでしょう」と言われて苦笑してしまいました。


 ○ 最後の話題。

 母の病室からは東京ドームが目の前
  

 8月31日の月曜日。この日も午前中から母の脇にいました。関東地方に台風が接近して、朝から風雨に見舞われていた日です。


    扉開きプラットホームに野分かな    弁人


 昼過ぎに姉が来て「電車が心配だから早く帰ったら」と言ってくれたので、甘えて交代、お役御免に。
 ニュースでは夕方頃が最もひどいということでした。ということは、夜になれば台風一過で回復、それじゃあドームの中にいるのが妙案と、都市対抗野球の観戦となりました。

 準決勝二試合の日でした。誰か知ってる選手でも出ていないかなと、日産自動車対トヨタ自動車のスコアボードを見ると、トヨタのトップバッターの荒波君、数年前の横浜高校の中心選手でした。
  

 第二試合のホンダ対NTT東京戦も投手戦に。応援のボリュームにも慣れて、場内アナウンスもなんとか聞き取れるようになっていたその時、「ホンダのピッチャー、チクガワ」という声が聞こえました。
 もう、十年近くなるのでしょうか。東海大相模が春の選抜で優勝した時の投手です。ちょうど娘に会いに行った時で、六甲山で宿泊する前と下りてきた日に、対東洋大姫路戦と対作新学院戦の二試合を見て、このピッチャーはかなりのものだと感心した記憶が蘇ります。この大会は、智弁和歌山が強かったのですが、彼の投球もすばらしく、東海大相模が優勝旗を手にしたのです。

 ついこの間、甲子園のネット裏で、「築川という投手がいたけど、球速はどのくらいだったのだろう、やけに球のキレがよかったなあ、今どうしているのだろう」と、懐かしく思い出していたところだったのです。

 代わりっぱなに失点しましたが、ホンダがすかさず逆転。勝利投手で決勝進出となりました。
  

 翌日の決勝戦は、録画して夜遅く見ましたが、ホンダが見事に快勝。築川君は先発で勝利投手、なんと、MVPにあたる橋戸賞に輝きました。


    夏逝きて大人と成れる若き人   弁人


 そして最後に、この夏の一枚

     






コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする