レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

名前の感覚

2006-05-21 16:14:08 | ドイツ
 多くの人が、自分の名前に劣等感を持っているという。私はといえば、自分の姓はすこぶる嫌いである。下の名前は好きだ。
 ドイツ語会話を習いに通っていた時、テキストに、ドイツ人の名前の話が載っていた。やはり、自分の名に不満を持つ人は少なからずいるらしい。ある少女が「ジークリンデなんて、暗い森をのし歩くいかついゲルマン女みたい」とモンクを言っていたので私は驚いた。「ジークリンデ」といえばまず浮かぶのは、『ニーベルングの指輪』の『ヴァルキューレ』の悲恋の主人公。この連想がなくとも、むしろロマンティックな響きだと思うのだが。もっとも、よそものにとっては物語の中の名前であっても、現地人にはそのへんにあって珍しくもなんともないということは大いにあるだろう。または、古すぎておかしいとか。『銀河英雄伝説』のアニメがドイツで上映された時、ドイツ語もどきの人名がまるで時代劇のようだと笑いがあがったという話をきいたことがある。私がポーランドでお会いしたドイツ系の高齢のご夫妻はレオンハルトとヒルデガルトというステキな名前をしていたが、こういうのも古めかしい名前なのかもしれない。 ある『ベルばら』サイトの掲示板で、このマンガのキャラ名を、現代フランス人から見て古い・古くないに分類していたことがある。詳しいことは忘れたが、「ロザリー」なんて、おばあさんみたいな名前だそうだ。あのマンガの可憐な少女として覚えた読者としては驚く。そういえば『女の一生』の主人公ジャンヌの女中がロザリーだったか。『ベルばら』のロザリーの姉の悪女が「ジャンヌ」だったので、どうもこの名の組み合わせを奇妙に思ったものである。ありふれた名前だとわかってはいても。
  『人名の世界史』(平凡社新書)によると、2003年度のドイツの新生児の名前は、男子が マクシミリアン、アレクサンダー、レオン、パウル、ルーカス、フェーリクス、ルカ、ダーフィト、ティム、ヨーナス 、女子が マリー、ゾフィー、マリア、アンナ、レア、ラウラ、レーナ、レオニー、ユリア、サラ。(「サラ」はあちこちの国でポピュラーですよ)
 ドイツ語の教科書でも多い名前の上位10はたびたび載っている。「ケヴィン」なんて名がはいっていることもあったが、よその国の俳優の影響だろうか。「アンナ」と「アンネ」は同じ名として扱われているのに、「マリア」と、フランスふうの「マリー」が別ものになっている点が興味深い。「ミシェル」がはいっていることもあった。日本でも異人のような名が珍しくないことを考えれば異なことでもないけど。 でもやはり聖書起源は不滅なようだ。日本人で仏教神道縁の名前なんてまずないだろうけど。

 
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小説『ティベリウス』

2006-05-21 16:02:07 | Allan Massieのローマ史小説
  『ティベリウス』(Tと略)は、Auの次に書かれただけあって、内容上でかみあってます。同じ架空キャラも出てくるし。前半はロドスで、誰に見せるともなく書いている手記という設定で(ほかの小説と比べると、ここにもティベリウスの孤独さが反映していると言えるかも)、後半はアウさんの死後のこと。重なってる部分は多いけど、語り手の性格の反映か、色気率はやはり低いと言えます。登場人物の描写で美貌に触れることが少ない点が目につきました。はっきりそうと書いてあるのは母リウィア、マルケルス、ユリア、アントニア。アウさんの語りだと明らかに、他人の美貌にももっとこだわってますからね、人物描写で容姿チェックが欠かせないみたい。明らかなメンクイ度の違い。実は、継父のそれに触れていないことが私のささやかな不満だったりします、ははは。
 ユリアはかなりおませでコケティッシュ、もともとティベに気があります。ティベはウィプサニアにもユリアにもそれなりに愛を持ってます。ここではどうやらティベ&ドル兄弟は初めからオクタのもとにひきとられていたようで、幼いドルちゃんが継父のまわりをはいはいして、オクタがあやす光景はたいへん微笑ましいです。(かわいくてたまらなかったろうな~)

 特筆すべきは、オリキャラのジクムントの存在。ゲルマン人の部族長の子で、争いに巻きこまれて奴隷にされ、剣闘士試合で負けて殺されそうなところをティベが助けて、忠実に仕えるようになり、カプリにも同行します。セヤヌスを調べる際にも活躍(実はこいつに、卑劣な脅迫で慰み者にされたという過去があったりする)。カプリでギリシア人の美しい娘と恋におちて結婚。その父親はアウさんから別荘おくられていたりもする中々名士なので、本来ならば蛮族など婿に認めないところですが、皇帝のお気に入りとなると話は別だった。暗いティベリウスの晩年ですが、少なくともこうやって彼が幸せにしてやった存在があることに救いを感じます(この夫妻の子供がじゃれついてくるときに安らぎを感じていたりする)。 このジクムントはのちにキリスト教に帰依して、修道院で、彼にとっての「地上の主」ティベリウスの手記を保管しているという部分がエピローグのようについています。 ところで、もし語り手がアウさんならばこのジクムントが美貌であることを登場のしょっぱなから書くに違いないのですが、ティベの場合直接にそうしていません、上記のメンクイ度の差がはっきりと表れています。
 マエケナスがオクタを「本当に愛した唯一の人」と語っている点が私にはたいへん嬉しかったりします、はっはっは。「のんだくれが酒を求めるように」少年たちを必要としたり、妻を愛していたりしたけど「それらはただの代わり」だと語っています、それもティベリウス(マエケナスに好意持ってないとわかっている)相手にという点がいっそうすごい。ーーこうなったらこれもばらしてしまえ、オクタがデキと別れてアポロニア(という地名は出てきてませんけど)へ行ってる間、オクタはマエケナスに身をまかせてます・・・
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小説『アウグストゥス』

2006-05-21 15:53:20 | Allan Massieのローマ史小説
英国の作家Allan Massie(以下、アラン・マッシーと表記。なんと発音するのかわかりません)には、ローマ皇帝とその周辺を扱った小説が数本あります。以下は、私が独訳で読んだ4冊について、他のサイトで報告したものから編集したものです。なお、タイトルを年代順に並べればこうです。
Augustus--The Memoirs of the Emperor (1986)
Tiberius The Memoirs of the Emperor (1990 )
Caesar (1993 )
Antony ( 1997 )
では、『アウグストゥス』から。

いやー面白かったです。第一部で私が一番盛り上がりを感じたのは、セクス・ポンとの戦いで苦戦中、敵軍に捕まりそうだと焦ったオクタが自害しそうになってて若い兵士セプティムスに慰め叱咤激励される場面ですね。(なんておいしい役どころなんだ~!)あるいは、顔を隠して兵士たちの雑談にまざってる(『ヘンリー5世』みたい)とことか。
2番目に驚いたことは、オクタのマルケルスへのひいきが、よからぬ噂をまねいていたという設定です。私の頭の中ではなにかとヨコシマモードの妄想が渦巻いていますが、こんなのは考えもしませんでしたよ・・・。リウィアに手紙で、「きれいな男の子を公然とかわいがるのは賢明ではありません。あなた自身、カエサルとのことを噂されたことを覚えているでしょう」なんて言われてるし、おまけにマエケナスがそれを言いふらしていたりする。(案外「眼福!」と思ってたのでは。)マルケルスとユリアの縁組について、オクタヴィアには「あの子があなた方夫婦の不和の種になるのは望みません」「あなたはあの子を甘やかしすぎ」とモンク言われ、リウィアにも「縁組で噂を否定するつもりなら無意味です、逆効果」と反対される。でもエジプトでのガルスの不始末・失脚にたいへんショックをうけて、あまりに落ち込んでいるので、リウィアが見かねて譲歩してくれた、とそういう展開になってました。(ルフスは、いつのまにかいなくなってます。)

では一番驚いたことは・・・後述します。第2部の第3章、重病で苦しんでいるときに意識に浮かんでくる衝撃の過去!(ちょっと眠い状況で読んでいたのが、意味を認識して目がさめてしまった)そして第6章の終わりごろではまたまた凄い告白! 思わずムンクポーズ。

マエケナスがのっけからアヤシイ人。「あなたはこんなにきれいな脚をしているのだから~」なんて言いながらオクタの脚を触りまくってて、アグがイヤな顔してる、そこへカエサル暗殺を知らせる手紙が来る、という回想の始まり。リウィアへのラブラブぶりは一貫してますな。こんなノロケをきかされた孫たちの心中って。
思いいれあって読んでると、孫たちにまつわりつかれてる至福のときも、ああこれも長くは続かないんだなぁと、特にアグリッパの死後はもうばたばたと死んでいくしで、切ないです。
 
ドイツ語でのタイトルは、Ich Augustus なので、ロバート・グレーヴスの小説を意識しているということがよりはっきりしています。
ふと思った:この小説のアントニウス、理代子さんの描いたポチョムキン、それも「天の涯まで」のを連想させます。傲岸不遜で魅力もあるという男。もっとも、ポチョムキンには賢さもあるけど、ははは。
スクリボニアには押し倒されたようなものです。リウィアを押し倒し・・・は 全然暴力ではないですね、お互いに盛り上がってるので。(「愛してる」なんて台詞がリウィアからオクタに言われるのを読んだのはこれが初めてです。)
序文で、「誰も予言できなかったし実際しなかった、このほっそりとした若者が、カエサルもポンペイウスもスッラもマリウスもできなかった、乱れた世界に平和と秩序を回復させるという偉業を成し遂げるとは」 ここでわざわざ、「ほっそりした」なんて語が使われているのがなにやら嬉しいです。
アグリッパの死後のユリアの再婚のこと。私はどうも、塩野さんの、「孫息子2,3人では不足と思った」を鵜呑みにしすぎていました。この小説ではアウさん、予想外にアグが先に死んでしまったので、自分の死後が心配になって、そのときユリアやその子たちを護れる男に託しておきたいと思ったという描き方になってますーーそのほうが自然だ。その相手が既婚のティベリウスというのが非常識なんですが。ウィプサニアの、アシニウス・ガルスとの再婚についてはこの作品では触れられていません。
ウェルギリウスもかなり得な訳です。悩みをかかえるオクタが、「愛している人々」4人に慰められる、その4人に含まれているくらいで。(あとはリウィア、アグ、マエケナス)
カエサルに対してけっこう愛がないです。暗殺の知らせのとき、私の脳内設定では、ふらっとしかけてアグの腕がさりげなくささえてる、という図なのですが、で、そんな感じの場面はあるんだけどその状況はアポロニアではなくて・・・。
「世界最古の職業」兼任、男娼で密偵なんてキャラのいる点もちょっとアヤシイ。

同じキャラが、視点の違いでどう見えるのか、特にアントニウスサイドからならどういう具合かは気になります。オクタはこいつを、魅力は認めてるけど知性はまるで評価してませんからね。先方ではどうなんだろうと。
スクさんとの最初の夜、彼女が3時間延々とタカビーで威圧的にしゃべりまくり、一時解放されたオクタをアグがワイン用意して待ってて、「これが必要だと思った」--明らかに気乗りしてない親友を、3時間なにを思って待っていたのか、考えるとちょっと笑えるかも。
そういえば(?)『男の肖像』で、アウさんのマルケルスへのひいきが「噂のたねになっていた」とちらっと書いてありました、私はアノ手のこととはぜんぜん思わなかったのですが。(であるとすれば)これにむっとするアグというのもけっこう意味深ではないですか。  この小説ではアグリッパははなはだアヤシくない人です。むしろ男色嫌いに見える。
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部屋の片付け

2006-05-20 14:05:45 | 雑記
 半年に一度くらいの割りで、マンションの各部屋の火災報知器の点検が行われる。日ごろカオスの私の部屋も、 少なくとも  この時は片付ける。『インザベッドルーム』という洋画のタイトルがあったが、それに倣って『けものみちインマイルーム』という言葉が私の頭に浮かぶ。
 数日後にその点検があるので、このところ少しずつ整理している。ただ掃除だけなんかやってられないので、こういうときはBGMが必須。BGMの存在感は、することに要する集中力と反比例すると私は思う。コロッケ丸めるとか、郵便物の宛名書きとか、頭を使わないときには少々やかましくてもいい。勉強するならば無音がいちばん。ただし、父の大声長電話がうるさいと、音消しに刺激の少ないバッハなどかけたりする。

 『月にかわって』の投下が済み、明日からはローマ小説紹介を始めます。まずはMassieから。
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ローマ史のヒロイン?

2006-05-20 14:01:07 | ローマ
いま上野で開催中のプラド美術館展、興味はあるが行く時間がなさそうなので、カタログだけ買ってきてもらった。グイド・レーニの『クレオパトラ』が載っている。展示作品でもある。「神話、歴史主題に典拠を求めた官能的な女性像は、レーニの画業の後半、1620年以降に数多く認めることができ、なかでもローマ史を飾る二人の悲劇のヒロイン、クレオパトラとルクレツィアは最も頻繁に描かれた。」
 ・・・クレオパトラがローマの代表ヒロインですか。ルクレツィアとは知名度比較にならない(「ルクレツィア」ならばむしろボルジアを思う人は多いだろう)、確かに有名だ。大河ドラマで『義経』やってた時期に、鎌倉が観光に「義経扇子」切符を売り出していたが、鎌倉と対立して非業の死を遂げた義経を使うのってヘンじゃないか、ローマ観光局がクレオパトラをポスターにするようなものだ、と思った。しかしパッとするのだな。カエサルの周辺の話を読んでいて、クレオパトラが登場すると彩り華やかになってくるのは確かに感じる。逆も言えるだろうけど。パトラものでも、カエサルとの出会いに至ると「待ってました!」という感じだろう、たぶん。(注) 先日の番組『ニッポン人の好きな100人の偉人』では、クレオパトラは70位にはいっていた。まぁいい。しかし、それなのにカエサルの名がないことはちと許せんな。(アウグストゥスはそもそも期待などしてなかったけど) パトラとの出会いがなくてもカエサルの名はカリスマとして残ったろうけど、カエサルとの関わりがなければクレオパトラの名前はこうも花形ヒロインにはなってなかったろう。
 もし、ポンペイウスがエジプト以外へ逃亡して、だからカエサルもエジプトには行かずに、王家の争いにローマが関わらなければ? 『その時歴史は動かなかった』の想像はたいへん楽しい。
 もっとぶっとんで、もしクレオパトラが男だったら?妹アルシノエと結婚はするけど仲は最悪、追い出されてたときにローマの権力者が来ていたのでこれに体当たり。カエサルはバイなので、青年王でも魅力的ならば色仕掛けにのってみてもおかしくない。すると最大の違いはカエサリオンが出ないことだ。いっそこのほうがイヤミのないキャラクターになるかもしれない。少なくとも、カルプルニアを「石女」と見下す視線は出てこないのだから。のちにアントニウスもひっかける展開になるとすると、取り戻そうと挙兵するフルヴィアや、結局夫を取られるオクタヴィアとの関係がなんだか喜劇的になる。
 パトラがカエサルの死後に手を組む相手として、アントニウスではなくオクタヴィアヌスを選んでいたら?とか。パトラはなぜアントニウスにしたのか、もしかしてオクタのカエサル「愛人」説に抵抗感じていたからだったりしたら愉快だ。
 パトラとカエサルの間の子が女児だったら? それならばパトラはこの子にエジプトの王位を継がせるだけで、ローマに対して権利要求などはしなかったろうから、オクタの継承権を侮辱して決定的に怒らせることはしないで済んだかもしれない。
 ああ、歴史のIFは楽しいなぁ。

 なお、レーニの絵の『ルクレツィア』もカタログで紹介されています、構図は『クレオパトラ』とそっくりです。


注:カレン・エセックスの小説『クレオパトラ』(角川文庫)は、「新しいクレオパトラ像!」と散々持ち上げられていたが、正直、「悪女」の偏見を排してマジメにクレオパトラに取り組めばこうなるだろう、特に新しいと賞賛するほど新しいか?と思った。もっとも、少女時代に多くを裂いて、後半でやっとカエサルと会っている点は確かに珍しい。
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「中世」の範囲

2006-05-19 06:42:02 | 歴史
 先日の番組、『ニッポン人が好きな100人の偉人』に、マリー・アントワネットがはいっていた。偉人かい!というツッコミはもちろん入れたいが、それを言い出すとキリのない顔ぶれだったのでそれはこの際おいとく。ここで問題にしたいのは「中世を華麗に生きた王妃」という説明!
 「中世」がいつからいつまでを指すのか、きっちりと決まっているわけではない。「ゲルマン民族の大移動からルネサンス以前まで」とした本、「西ローマ帝国が滅亡した5世紀末からルネサンス・大航海時代の間」という説明、「百年戦争まで」、「500年~1500年」と諸説ある。かなり漠然としていることは確かだ。・・・しかしな、18世紀、フランス革命となるともう完璧に違うだろ!「中世を華麗に生きた王妃」の言葉ならば、アリエノール・ダキテーヌなどのほうがはるかにふさわしかろう。フランス王ルイ7世の妃、離婚してイングランド王ヘンリー2世妃、リチャード獅子心王の母、とことんタフでお騒がせな女。・・・でも知名度はアントワネットの比ではないのだな。
 どうも、厳密に言葉を使おうとしない人々は、王様や貴族や平民がいて、馬車に乗っていて、女が長い裾の服を着ていて、適当にムードのある「ろまんちっく」な昔をみんな「中世」ですませてしまうようだ。
 ところで私にとっては、「中世」といってイメージがしっくりくるのは、せめてカール大帝(8~9世紀)あたりからだ。中世ものの代表のアーサー王、モデルとなった人物は6世紀の人と言われているが、6世紀はどうも「中世」って気がしない。専門家でもない私の感覚なんて権威ないけど。ドイツ中世文学の代表作の一つ『ニーベルンゲンの歌』は、舞台は民族移動の時期、これもむしろ古代と言いたくなる。アイスランドの『エッダ』『サガ』はまさしく中世に出来ているのだが、これを「北欧中世」と書いてあると、正しいにも関わらずなんとも私は違和感覚えてしまうのだ。う~ん、「中世」というと、大陸ヨーロッパで、カトリック世界のような気がする。この、カトリックと中世との結びつきは、少なくともドイツ文学史においては意味がある。すると、ルターが「中世」にとどめを刺したという見方もありそうだ。
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映画の題名

2006-05-18 15:36:13 |   ことばや名前
 先週、新聞の「つれづれ」が「映画の題名」というテーマだった。かつて、名作映画には原題とは違っても内容に合っていて雰囲気のある題を工夫してつけていたが、最近はそのままカタカナ化したものが多い、というのが主旨。(私の愛読する清水義範もこれをよく話題にする。私の知っている限りでは3回タネにしている)

 「 「ロード・オブ・ザ・リング」などどうだろう。まさか格闘技ものだと勘違いした人はいないだろうけれど。」

 私はこの映画の題について、原作が『指輪物語』で定着しているのだから『指輪物語』でいいじゃないか、だいたい「ロード」では「道」だと誤解されるだろう(まぁ、指輪を探す道のりの話だから差し障りはないけどさ)、と思ったが・・・そちらのリングは思いつかなかった。レスラーたちがテーマ曲にのってのしのしと現れる光景なのか。

 私は、手抜きカタカナ化タイトルに対して怒りと嫌悪感さえ覚える。挙げればキリがないのでいまは1種類:原題が英語でさえないのに英語というもの。ドイツ映画の『ラン・ローラ・ラン!』・・・ああ言いにくい。直訳して『ローラは走る』、または『走れローラ』でいいだろ、ほんとに走り回ってるんだから。なんのために走るの?と思ってくれたら成功。同じくドイツもの、聾唖者の両親を持ち音楽家を目指す少女を主人公とした『ビヨンド・サイレンス』。原題を直訳すれば『静けさの向こう側』、これで充分良いではないか。なにを考えて「びよんど」!なんというマヌケさ。私が独裁者ならば罰金とってやる!
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セーラーム-ン論⑤女性性の優位

2006-05-18 15:28:02 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
5 女性性の優位

 『セーラームーン』における女性性の優位は、次の点にも現れている。
第3部の終わりで、ほたる=サターンは、うさぎたちよりも少し年上の3人の戦士(はるか、みちる、せつな)に引き取られて、第4部に再登場する。「はるかパパ」「みちるママ」「せつなママ」の間でほたるは急成長している。ここには血縁も婚姻もなく、そして4人の暮らしはユートピアのように幸せである。これは、保守的な家族観に対して挑発的なほどの設定である。
 うさぎ&衛の関係は、過去においては姫と王子の定形を成しているが、未来においてネオ・クイーン・セレニティはもはや戦士ではなくとも、危機の際には力を発揮する。そしてミレニアムの女王は代々第一王女しか産まないことになっていて、つまり、この王国は「女王国」なのである。
ラストシーンは二人の結婚式で、うさぎは衛に「もうすぐあたしたちの娘が あたらしいセーラー戦士は生まれてくる予感」を告げる。「戦士」とは、とことん女の役割である。
 作者武内直子は、「女の子を描くほうがずっと好き」と公言している。2001年の読みきり『ときめか』で、天才少女科学者を登場させて、自分の友だちとして女の子型ロボットを発明する話を作っている。これまでの物語では、ロボット、アンドロイド、サイボーグ、ホムンクルスなどの発明者は専ら男だった:『ファウスト』『フランケンシュタイン』『ピノキオ』、『Drスランプ』『鉄腕アトム』『ブラックジャック』。発明や科学が男の領分と思われていたこと、女は自然に産むことができることが理由として考えられる。『とキめか』の設定は、女もまた科学者たりうることをさりげなく主張して少女たちを応援している。
この物語が表現しているのは、すべてを欲しいという貪欲な願いである。すなわち、美も力も、恋も友情も、安らかな日常もわくわくする冒険も。過去の働く女性たちは、家庭かキャリアかの選択を迫られていたが、もうそういう二者択一ではない。一見たわいのない恋と戦いの物語である『セーラームーン』は、――プリンセスが最高の位置にいる、少女たちが戦いの主役である、太陽が月に救われる、女二人がカップルとなっている、結婚もしない他人の娘たちが家族を構成しているーー様々な価値観の転倒を含んでいる、挑発的、革命的な世界だったのである。

原題 Im Namen des Mondes oder Von der Umkehrung des gesellschaftlichen Geschlechterrollenverstaendnisses in Sailor Moon. Ein Blick auf den japanischen Maedchencomic
所収 Zwischen Flucht und Herrschaft. Phantastische Frauenliteratur. edfc
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セーラームーン論④神話へのアンチテーゼ

2006-05-18 15:23:07 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
4 ギリシア神話へのアンチテーゼ

 男女関係の検討にあたって、少年マンガのヒット作、車田正美『聖闘士星矢(セイントせいや)』(1986-90)に若干触れたい。多くの女性ファンを持ち、戦士の名前が星座から取られている、つまり神話起源という点で『セーラームーン』との接点はある。このマンガでは、戦士は「聖闘士(セイント)」と呼ばれ、女神アテナの生まれ変わりである財閥の令嬢に仕えている。
 『セーラームーン』と比較すると、次のような違いがある。まず、『星矢』では、戦いが男の領分であること。これは少年マンガであることからしても不思議ではない。数少ない女のセイントは、女であることを捨てた証として仮面をつける。
 そして、日常生活というものがほとんど出てこない。中心になる5人は中学生の年齢だというのに、学校へ行っている様子もなく、家族の縁も極めて薄く設定されている。子供向けメディアで女が戦う場合、動機が個人的だという傾向が指摘されているが、日常性の重視もこれに関連している。
 最大の相違点は、女戦士と女主人の関係である。『星矢』では、たくさんのセイントがアテナを護っているが、女セイントがアテナへの好意を表す場面は皆無であり、セーラー戦士たちがクイーンやプリンセスへの揺るぎない愛と忠誠を抱いていることとは対照的だ。これは、神話で女神アテナが専ら男に味方していることに合致している。
 そして、単性生殖という点で神話と比較してみよう。『セーラームーン』で、過去の世界のシルバーミレニアムで、プリンセス・セレニテイには父がいない。クイーンの夫の存在は問題にもされない。画面には男の住人は見当たらない。プリンセス・セレニティは、専ら母の娘である。
 一方、第3部以降に登場するセーラーサターン=ほたる。彼女は子供のころ火事で死にかけ、マッドサイエンティストの父にサイボーグ化された。そして、悪に染まった父の傀儡にされかかる。つまり、母の娘のセレニティは正義の戦士となり、父の娘ほたるは悪に利用される。そして、一度肉体が滅びてから生まれなおし、また3人の戦士たちによって育てられて仲間に入り直す。これは、ギリシア神話でのアテナとヘパイストスの設定ーー父ゼウスの頭から生まれたアテナが輝かしい存在であるのに対し、ヘラが一人で産んだヘパイストスが醜く滑稽なことーーの男尊女卑への強烈なアンチテーゼではなかろうか。
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セーラームーン論③月と太陽

2006-05-18 15:17:52 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
3 月と太陽

 『セーラームーン』では、戦士たちが天体の名(ギリシア・ローマ神話)を持っており、月との縁も深い。日本の伝統の中の月と太陽の役割をふりかえってみよう。
 日本の神話では、太陽の女神たるアマテラスが主神であり、その弟の月神ツクヨミは影が薄い。
 最古の仮名物語である『竹取物語』は、月の世界から来たかぐや姫が主人公となっている。日本人にとって「お姫様」といえばほとんど西洋のイメージである中、唯一に近い和製(中国起源ではあるが)プリンセスとして定着している。(番外編『かぐや姫の恋人』もこれをふまえている) 月がメルヘン的な舞台になることもこの物語以来の伝統といえる。
 和歌の世界で、桜花と月は美の代表である。「月下の歌人」西行は「願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ」とうたい、その願い通りの死を迎えた。同時代の高名な歌人藤原定家の編んだ、今日でもカルタ遊びとして親しまれる「小倉百人一首」に月は1割以上出てくるのに対して太陽はほとんどうたわれない。大正の日本浪漫派の代表、「情熱の歌人」与謝野晶子は「清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵あふ人皆美しき」と絢爛と詠んだ。そもそも月は恋と結びつきやすく、太陽は詩的になりにくい。
 大正時代、婦人解放運動が高まった中、運動家の雑誌『青踏』の巻頭の言葉「元始、女性は太陽であった」は名高い。ここでは、他の光を反射する月は受身で否定的なものとしてとらえられ、太陽こそが新しい女の模範とされた。
 なお、日本語には、悪いことをしたら「お天道様に顔向けできない」という言い回しがある。
 総じて、太陽は力・正義の象徴であり、月は美と恋の領域に属しているといえる。
 『セーラームーン』は、ほぼ太陽系が舞台であるが、月こそが最高の位置を占めているように見える。それそれの惑星の「プリンセス=守護戦士」が月の王国「シルバーミレニアム」に仕えている。そして地球も月によって見守られている。第4部で、地球の奥にある聖地「エリュシオン」、そこの祭司「エリオス」が登場する。そこの主はエンデュミオンであり、エリオスは奥で祈ることが使命だと言う。ここでも、家にいて守ることが女の役割だという前提は覆されている。
 この4部の結末では、捕らわれていたエリオスはセーラームーンたちによって救われ、うさぎ&衛の娘の「ちびうさ」、未来の月のプリンセスのキスで目覚める。
 「エリオス」はそもそもギリシア神話の太陽神の名である。彼をちびうさは「王子様」と呼ぶ。太陽の名を持つ少年が、未来の月の姫に救われるのである。
 『セーラームーン』では、月が太陽よりも能動的である。「あたしはスーパーセーラームーン みんながさずけてくれた力で光り輝く戦士」――ここでは、月はただの反射として否定されているのではなく、仲間たちの協力として肯定的に解釈し直されている。「愛と正義の」戦士が「月にかわっておしおき」することは、伝統的イメージに沿いつつ新しかったのだ。
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