レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『新選組血風録』上映会

2006-05-08 14:49:57 | 新選組
5月9日は栗塚誕生日につき、今日明日はこの話題。

 『新選組血風録』、司馬遼太郎原作、昭和40年 1965 放映の連続テレビ映画。東映。脚本:結束信二 主演:栗塚旭。
 5年後の『燃えよ剣』と、製作者・出演者がかなり重なっているので、姉妹編、少なくともイトコくらいの関係にある。名作との呼び声高かったが、モノクロというハンデゆえに、再放送されにくいと言われており、有志による上映会がいくらか行われていた。東京で上映されたのは、1979年、私は中3の秋だった。その筋では有名人なのでお名前を出してしまうが、横山登美子さんによる「新選組の映画を観る会」の第1回が中野で催された。この時は『血風録』の1-3話。原作は短編集であり、新選組の歴史を網羅しているわけではない。だからこのドラマーー厳密には「映画」なのだかこう言っておくーーは、結束脚本のオリジナル部分がかなりはいっている。第1話『虎徹という名の剣』は、原作にもある。池田屋というクライマックスからはいってフラッシュバック、お約束な始まり方を見事に生かして、鮮烈なキャラ描写にもなっている。2話『誠の旗』は全くのオリジナル。まだ新選組も結成初期。誠の旗の製作を依頼した土方に、染物屋の女将が想いを寄せるがやがて悲劇に終わる。女将は芹沢に手籠めにされて自殺。その憤りを胸に秘める土方、内心の闘志をナレーションで語りながら、テーマソングのイントロが盛り上がっていき、「花の吹雪か血の雨か 今宵白羽に散るは何」と歌に突入。酒席で暴れる芹沢をよそに黙然と、冷ややかに杯を干し続けるーーラスト。か、かっこいい・・・。端正このうえなく、清潔で凛々しく可愛く上品、そういう栗塚旭によるクールな土方像、そして重厚で緻密なドラマ、美しい音楽、細やかな演出、魅力ある出演者たち。激動する時代に自ら飛び込んでいく戦う男たち、そして巻き込まれていく庶民の哀歓。この、庶民の哀歓とは結束ドラマの普遍テーマである。
 それはともかく。第3話では、芹沢一派が粛清される。その旨会津藩邸に報告し、見送られながら出て行く土方の前に、芹沢に逆恨みから手籠めにされて気のふれた商家の女将が現れて、彼を罵る。罵倒に黙って耐える土方。そしてナレーション。「凄まじい倒幕佐幕の時代の戦いがこれから始まる。新選組はその先陣を切るために立ち上がる。だが、その新選組は、数え切れぬ人々の痛ましい犠牲の上に作られたのだ。その新選組を、俺はいま動かそうとしている。それが俺の悔いのない生き方だと信じているからだ。理屈はいらない。この剣が飾り物かどうか、俺がこの命を燃えきらせた時、決まる」--ここで主題歌へ。「花の吹雪か血の雨か」「明日はこの身が散らば散れ 燃える命に悔いはない 月に雄叫び血刀かざし 新選組の旗は行く」--完。
 言葉で伝えることが難しいが、めまいのするようなカッコよさだった。
 これが上映会の記念すべき一回目のこと。その後についてはまた明日。

 付記。私は修士論文(リメイクして学内の雑誌に載せてデビューとするのが慣例である)で、上記第3話の『昏い炎』のタイトルを借用した。これではなにがテーマかわからないので、それは副題で表現した。内容と合っているから使ったのだが、「ロマン派的形容矛盾」だとほめられた。
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ユキさんとハットリくん

2006-05-08 13:06:32 |   ことばや名前
 ここで私が言う「新聞記事」は読売、「ニュース」はNHK、私の見聞きした範囲であることをあらかじめお断りしておきます。私のきいたのは違ったよ、ということは充分にありえます。

 1993年、甲府で、信用金庫のOL内田友紀(うちだゆき)さん19才が誘拐されて殺されるという事件があった。その報道で、「ユキさん」と下の名前で呼んでいることがひっかかった。普通、大人は姓で呼ぶものではないのか?未成年者だからか?しかし、その前年、アメリカで留学中の服部剛丈(はっとりよしひろ)君16才が、ハロウィンパーティーで誤って射殺されたという事件があり、この被害者は「服部君」と呼ばれていた。こちらのほうが年少、まだ高校生だったのに。
 やはり、女性だということが理由だったのだろう。私も、最初きいたニュースで「内田さん」と言われていたときにはそれが男性だと思ったことを白状しておく。
 概して、女のほうが下の名で言われることが多いだろう。例えば、先入観なしで小説を読み出して、「高橋が目を覚ました時、外はもう明るくなっていた。とりあえず顔を洗っていると電話がなり、急いで出てみると同僚の矢沢からだった」なんて書いてあると、その高橋や矢沢は男だとなんとなく思ってしまう。「化粧水をつけ」「ファンデーションを塗り」なんて書いてあればたいていは女と判断するだろうが、洗顔や手洗いならば男に傾く。つまり、人間の標準はいつのまにか男の側になっている。
 「偉人伝」女性の3代表は「キュリー夫人」「ヘン・ケラー」「ナイチンゲール」。「フローレンス・ナイチンゲール」ではいささか長いのだろう。「ヘレン・ケラー」は短くてすむ。「マリー・キュリー」も簡単でいいと思うのだか、もしこれを単に「キュリー」と記したら、やはり男と決めつけられるのに違いない。
 姓は公、名前は個人の領域、つまりこれは、「公」は男が支配するものだという意識の現れであろう。

 名前呼びになる傾向は、「ガイジン」に対してもあるように見える。例えば、「メアリ・スミス」さんの生活をレポする番組があるとして、同じ趣向で日本人の「鈴木かおりさん」ならば「鈴木さん」と言われそうなところを、「スミスさん」よりも「メアリさん」にする、それは充分にあることだ。「ガイジン」はファーストネームをよく使うものという先入観かもしれないが、時折抵抗を感じる。
 それが家庭的な内容ならばわかる。しかし、単に犯罪被害者などに名前を使っていると馴れ馴れしくて不似合いに思う。オバラジョウシとかいううさんくさいヤツに殺されたらしいイギリス人元スチュワーデスのルーシー・ブラックマンさんを、ルーシーさんルーシーさんと言っていると耳障りだった。
 日本人の話に戻ると、飲食店従業員のイシバシユウコさん(まだ10代だった)が一応の「夫」に殺された事件が近年あった。借金とりから逃げるために結婚離婚をくりかえして姓を替えていたという男だった。これについての記事で、被害者を「ユウコさん」と、犯人を「イシバシ容疑者」としていることがなんとも不快だった。そもそも「ユウコさん」のほうが「イシバシ」で、男のほうがあとから来たのではないか。のちに、犯人が勝手に出したらしい婚姻を被害者の父親が無効にしたせいなのか、犯人は○○と下の名で書かれるようになった。
 もっとも、私は敢えて○○を覚えていない。名前というものを見ると、それをつけた人々、たいていの場合は親の存在を感じる。あとで犯罪者になってしまう人間でも、期待されたころがあったのだと思うと悲しくなってしまう。だから、犯人の下の名前は痛々しくて覚えたくないのが常なのである。
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