レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『ダイヤモンド・ガイ』文庫化

2006-05-25 10:44:32 | マンガ
 かわみなみ『シャンペン・シャワー』は、「ララ」に83~86年に連載された。南米の国エスペランサで、ジャングル育ちの少年アドルがサッカー選手として活躍するコメディ。私はこれを愛読はしたが、サッカーファンになったわけではやはりナイ。影響の受け方にも相性というものがあると思う。
 アドルよりも、敵チームのコンビのマルロ&アンドレのほうが人気が出て、本編終了から間もなく、彼らの過去の番外編が描かれた。本編は「花とゆめ」コミックス6巻本で出たが、なぜかこの『ダイヤモンド・ガイ』は未収録のままだったのだ。2002年に、ワールドカップ便乗で『シャンペン・シャワー』が文庫化されるとなって、では『ダイヤ~』もついに併録されるのか!と期待した、そしてそうはならずにがっかりしたファンは多かったに違いない。私もその一人である。あれから4年、またWCがめぐってきて、再度のチャンス。この文庫を知ったとき、やはりという気持ちの次には、100ページしかなかったのに、なにを併録するんだろう?という考えだった。
 『ダイヤモンド・ガイ』は、本編より10年まえに幕を開ける。13才のアンドレはマルロ18才のデビュー戦を見てすっかりファンになり、5年後に同じチームに入り、新たな同居人 を探していたマルロと一緒に住むようになる。マルロが八百長をもちかけられていると知って動揺するアンドレ、マルロの真意は?--結局、マルロを崇拝するだけでなく自分の方針を持つことによっていっそう互いの必要さを確認したという、ある種の読者にはたまらない物語であるが、ヨコシマモードなしで読んでも良い話である。
 『すすめエスパーニャ!』は、確か「ララ」作家たちの短編アンソロジーに載ったもの。スペイン愛国者の青年たちが、国際交流のために世界にスペイン語を広めようと遠征に出る大笑いモノ。サッカーの場面はやはりあるので、ここにはいっていたことには納得。
 さて、いちばんたくさんのページを占めていたのは『一輪の花』に始まる『花田兄妹シリーズ』。男子高校生花田咲也は後輩高柳に実は片想い、しかし高柳は男子高を嫌ってわざと悪さしまくって自らを退学に追い込む、咲也は告白もできずに失恋。妹のさくらはヤオイ好きで、同人誌を作っている。彼らの家に、ホームステイで日英ハーフのゲイ少年佐藤が来て、咲也の親友に惚れて咲也を困らせる。・・・このシリーズ、BL誌に場を移して『大きな栗の木の下で』として続いたが、そこまでは今回入ってない。同性愛を「異常」視も当然視もせず、やおい嗜好もヘンタイと決め付けるのでなく、暖かい視線でマジメに考える姿勢が好ましかった。途中で雑誌の講読をやめたのでどこまで進んだのか記憶が曖昧である。
・・・それにしても、これらを入れるとは思い切ったなかわみさん・・・。サッカーものとして手に取るお初の読者も予想できただろうに。
 一つだけ毛色の違う『はあどぼいるどカフェ』については別に述べる。

 私はコミケで、かわみさんを拝見したことはある。マンガでの自画像と近かった。洋画ジャンルだった。
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ジンギスカンでいくつか

2006-05-25 10:31:55 | 歴史
 ジンギスカンについて私はほとんど知らないが、関連していくつかの話題。

 『義経伝説と日本人』という本を読んだ。平凡社新書、森村宗冬。
 曰く、義経の不幸は本人の現実認識不足のためであった。鎌倉時代に文芸で復活。室町時代末期に「判官びいき」という言葉の発生。蝦夷地へ渡ったとか、大陸で清王朝の祖になったとかだんだんエスカレートする。シーボルトが「清王朝」説を通詞からきいて、勘違いからジンギスカン説を言い出す。明治・大正にジンギスカン説が高まり、論争にまでなる。
 筆者は、「判官ひいき」とは、時代の波にのれなかった敗者による感情移入で、被害者意識や自己正当化で、冷静さを欠いた後ろ向きな感情だと批判している。私はここまで否定的ではないが、敗者に対しての過度の思いいれは賢明でないという考えはある。敗者に同情するだけならばまだしも、勝利者が悪者にされることが不当だと。
 先日の『ニッポン人が好きな100人の偉人』でも、義経は上位にはいっていた。頼朝はナシ。「頼朝の裏切り」って言い方不当だろ!

 今年の教育テレビの「ドイツ語会話」で、70年代の歌『ジンギスカン』が出てきた。有名らしいが私は初めてきいた。英語で知られているが元はドイツの歌。ワイルドな英雄としてモンゴルの民がうたわれている。塩野さんの『男の肖像』の北条時宗の章には、モンゴルといえばヨーロッパの歴史の中では恐怖の的であったように書かれているが、荒々しさが魅力に見えるという面もあるのだろうか(井上靖が「匈奴」を好きなように)。 

 日本とモンゴルの合作映画『蒼き狼~地果て海尽きるまで』が製作されるらしい。原作は井上靖『蒼き狼』と森村誠一『地果て海尽きるまで』だそうで(前者しか読んでないが)、だいぶ性質の違う作家から二つで大丈夫なのだろうか?それに、本タイトルと副題の場合、一方で風情を狙うならば、片方で具体的な内容を示したほうがわかりやすいのではないかと思うのだが(私が論文書く時はそうしてる)、これは両方とも詩的だ。外国では単に『ジンギスカン』にされたりしてね。
 とりあえず、この際だからまた読むか、と『蒼き狼』を買ってきた。

 1,2年前、新聞の投書欄に、モンゴルから来ている人が、「ジンギスカン」という料理の名称を変えてほしい、と書いていた。現地の人々がイヤだというならば考えてもいいけど(と私は思うけれど)、「もし日本の偉人が外国で料理の名に使われていたらどう思うでしょうか」という問いかけに対しては、・・・いえ、別にイヤじゃないよ、と答えるかな。「ジンギスカン」を食べる人だって、それがモンゴルの英雄の名であることくらい知っているだろうし、料理が悪い印象に結びついているわけでもない。「トルコ風呂」の例とはだいぶ状況が違う。この主張あのあとどうなったのだろうか。今年改めて脚光を浴びたりするだろうか。

 ところで私は「ジンギスカン」食べたことありません。同じヒツジでもトルコ発祥の「ケバブ」ならドイツでお馴染みだったけど。
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小説『ルビコン』その2

2006-05-25 10:01:14 | Colleen McCullough
<ガリアの庶子>

 『十月の馬』で、カエサルがガリアでの子供をちらっと思い出す場面がありますが、これが登場しています。ヘルウェティ族長の娘で、夫に理不尽に離縁された女がカエサルのもとにいついた感じで、彼女を夫は石女と罵ったけど、さっさと身篭って男児を産んでしまいます。
 リアノン(本名は違うけど発音しにくいのでカエサルはこう呼ぶ)は、息子をオルゲトリクスと自分の父から名づけるけど、あとでローマでもカエサルの勢力を知って、その跡継ぎにしたいと言い出す―――という、つまり、多くのクレオパトラものにおける彼女と同じ過ちを犯しています。カエサルはこれを拒否し、いずれ息子は母の国に帰して、そこの王となるように勧めます。「おまえはローマ人でもなくカエサルの妻でもない」と言って。
 でも彼女はそれが納得できません。 「私は王の娘なのに」 「ガリアでは、跡継ぎ息子を得るために複数の妻を持つのに」
 それで、よりにもよってセルウィーリアに手紙を書いて説明を求めるんですよ。するとセルウィーリアは望みに応じて教えます。ローマ人にとってはローマの血こそ重要で、蛮族の王女だろうと意味ない。実の息子がいなくたって養子をもらえばすむこと、という説明がなされます。「私は彼の娘を産んだのよ、別の男の妻だったからやはりカエサルの名前を名乗れなかったけど」と書く彼女の心には「息子を産んだからっていい気にならないことね」という気持ちがあるに違いありません。「あなたはただの間に合わせでそれ以上でも以下でもないわ」―――こういうことは、カルプルニアがクレオパトラにも言ってやれることですね(ところでこの辛辣な手紙にリアノンは、「セルウィーリア、呪ってやる!」と激怒してました)。
 のちに、カエサルと敵対するガリア人によって、彼女は殺されて、息子(当時5才)は連れ去られてしまいます。彼らはこの子を奴隷の身分に堕としてやって報復すると言っています。以後、カエサルは一切追及せず、消息不明です。

<おばコンのカエサル>
 ところでこの庶子オルゲトリクスの容姿は、カエサルのおばユリア(マリウスの妻)に似ているという設定になっています。「これはカエサルの心を溶かすに充分だった」
 『十月馬』で、カエサルはオクタヴィアを見て、おばユリアを思い出して優しい気持ちを刺激されています。マザコンだけでなくておばコンでもあるようです。『ルビコン』では、姪アティアもこのユリアに似てると描かれています。アティアは金髪碧眼の美人設定。オクタヴィアの目は「アクアマリン」、こういう設定考えるのをきっと作者は楽しんでますね。
 私は、オクタの金髪設定を特権的なものと感じているので、あまり使ってほしくありません。母や姉はいいけど、カエサルの金髪は抵抗あります。カエサルは血縁ではあるけれど、スエトニウスの「黒い目」描写があるので、髪もダークと私は思っておきます。

<熱い女たち>
 マクロウさんのこの作品群、激しい女がたくさん出てきます、そして、熱い夫婦も多いです。意外なことに、カトー×マルキアもで、ほとんど一目惚れで燃えあがってしまう。カトーは、自分があまりにマルキアを愛しすぎていることを恐れるがために(彼女なしでは生きていけないということを否定したくて)、ホルテンシウスの求めに応じて譲った、というふうに描いてあります。で、ホルテンシウスの死後、せめて、法の定めた10ヶ月待てというフィリップスを強引に説き伏せて(その10ヶ月に間にカエサルとの戦闘になってしまうかもしれない、いまのこの時期を逃せないと言って)即座に再婚してしまうという、かなりヘンなヤツです。カルプルニアとマルキアは仲良しで、しかもそれぞれ夫をたいへん愛しているという、これまた奇妙な人間関係です。この交際について、カトーも「男の世界と女の世界は違う。カルプルニアは立派な婦人だ」と全然とがめてません。
 猛女のフルヴィアも、この巻ではクリオとクロディウスに死別しています、でもその都度たいへん愛し合ってます。アッティクスは、「不貞の願望のない珍しい女」と賞賛していますよ(そんなに珍しいんかい…)。
 結婚したのは『十月の馬』でですが、マルクス・ブルートゥス×ポルキアもたいへん熱烈です。ヨメをグーで殴り倒すセルウィーリア、そして殴り返すポルキア、並じゃない。シリーズ後半のヒロインは、最も印象の強い女をヒロインというのなら、たぶんセルウィーリアでしょう。カエサルも彼女を、性格の悪い女だと思ってますが、でも相性がいいんですよね。
 もし、『十月の馬』のあとまで描かれたら、オクタ×リウィア、アントニウス×オクタヴィアはどう描かれたのだろうと気になります。
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