3 トランスジェンダー
この言葉は広く解釈できる、男装・女装、同性愛、そして「戦う女」もこれに含まれうる。
最初の少女マンガとされる『リボンの騎士』は、王子として育てられたサファイヤ姫の冒険物語である。作者は宝塚歌劇に大きな影響を受けたことは有名であり、宝塚歌劇はずべて女性が演じており、特に男役スターが花形である。
少女マンガにおいて、男装はしばしば現れる設定であり、このテーマで必ず言及されるのが上述のサファイヤと、『ベルサイユのばら』のオスカルである。フランス革命を背景に持つこの物語の主人公は、王家に使える軍人の家に生まれ、跡継ぎとして男として育てられ、王妃に仕える。しかし、革命思想に目覚め、バスティーユ攻撃に参加して戦死する。
ホモセクシュアルも、『トーマの心臓』などの少女マンガ古典、専門雑誌の創刊、外国映画のヒットなどの段階を経て、今日の少女マンガでは無視できない要素となっている。人気の理由は様々に分析されているが一言では言えない。日本の歴史や風俗を見れば、古代の伝説的英雄ヤマトタケルの女装エピソード、歌人紀貫之が女のふりをしてつづった『土佐日記』、男装して舞う中世の白拍子、伝統芸能歌舞伎、男歌手が女心を歌う演歌。そして、仏教では男色をタブー視していなかったこと。これらの性別越境が日本だけのものだと断言はもちろんできないが、目だっているとは言えよう。
戦いは男の領分とされているので、戦う女も性別越境に加えることができる。この関連で、あずみ椋『神の槍』を取り上げよう。主人公アースゲイルは、ノルウェーのハラルド美髪王(9世紀に実在)の側室の娘。この美しく勇敢な少女は、強いられた婚礼の席でヴァイキングの襲撃にあい、首領レイヴに連れ去られる。海に出られたことを喜ぶ彼女は、父との葛藤と和解ののち、レイヴと共に旅を続ける。これが連載の前史になる。
続く部分に登場する、アースゲイルを羨ましいと思う少女の挿話が興味深い。パリ伯の娘マチルドは修道院で「女なんてつまんない 白い天馬に乗った勇者がここから連れ出してくれないかといつも思ってた」ところ、ヴァイキングの襲撃で人質となり、アースゲイルに出会う。マチルドは、男たちに混じって渡り合うアースゲイルに憧れを抱く。しかし、トラブルの相手をたやすく斬り伏せる様子におののき、「ヴァルキューレの翼は血に汚れていた その覚悟がなければ飛んではならないのだ 私になんの覚悟があろう 父のもとに帰ろう」――もとに戻った少女の心は少し変化している。「天馬なんか来なくてもきっと何か違う明日がやってくるよね」「あの北の国のヴァルキューレはどこまで飛んでいくのだろう」
この結末は、冒険心の否定では決してない。諦めのような決心、楽天的な妥協、自由に伴う責任の自覚は、むしろ、自由への渇望が普遍的なテーマであることを示している。そして、少女マンガが昔も今も様々な形でのトランスジェンダーを追求していることは、意識的にせよ無意識にせよ、ジェンダーフリーの世界、女らしさという名の鎖からの解放の試みなのである。
この言葉は広く解釈できる、男装・女装、同性愛、そして「戦う女」もこれに含まれうる。
最初の少女マンガとされる『リボンの騎士』は、王子として育てられたサファイヤ姫の冒険物語である。作者は宝塚歌劇に大きな影響を受けたことは有名であり、宝塚歌劇はずべて女性が演じており、特に男役スターが花形である。
少女マンガにおいて、男装はしばしば現れる設定であり、このテーマで必ず言及されるのが上述のサファイヤと、『ベルサイユのばら』のオスカルである。フランス革命を背景に持つこの物語の主人公は、王家に使える軍人の家に生まれ、跡継ぎとして男として育てられ、王妃に仕える。しかし、革命思想に目覚め、バスティーユ攻撃に参加して戦死する。
ホモセクシュアルも、『トーマの心臓』などの少女マンガ古典、専門雑誌の創刊、外国映画のヒットなどの段階を経て、今日の少女マンガでは無視できない要素となっている。人気の理由は様々に分析されているが一言では言えない。日本の歴史や風俗を見れば、古代の伝説的英雄ヤマトタケルの女装エピソード、歌人紀貫之が女のふりをしてつづった『土佐日記』、男装して舞う中世の白拍子、伝統芸能歌舞伎、男歌手が女心を歌う演歌。そして、仏教では男色をタブー視していなかったこと。これらの性別越境が日本だけのものだと断言はもちろんできないが、目だっているとは言えよう。
戦いは男の領分とされているので、戦う女も性別越境に加えることができる。この関連で、あずみ椋『神の槍』を取り上げよう。主人公アースゲイルは、ノルウェーのハラルド美髪王(9世紀に実在)の側室の娘。この美しく勇敢な少女は、強いられた婚礼の席でヴァイキングの襲撃にあい、首領レイヴに連れ去られる。海に出られたことを喜ぶ彼女は、父との葛藤と和解ののち、レイヴと共に旅を続ける。これが連載の前史になる。
続く部分に登場する、アースゲイルを羨ましいと思う少女の挿話が興味深い。パリ伯の娘マチルドは修道院で「女なんてつまんない 白い天馬に乗った勇者がここから連れ出してくれないかといつも思ってた」ところ、ヴァイキングの襲撃で人質となり、アースゲイルに出会う。マチルドは、男たちに混じって渡り合うアースゲイルに憧れを抱く。しかし、トラブルの相手をたやすく斬り伏せる様子におののき、「ヴァルキューレの翼は血に汚れていた その覚悟がなければ飛んではならないのだ 私になんの覚悟があろう 父のもとに帰ろう」――もとに戻った少女の心は少し変化している。「天馬なんか来なくてもきっと何か違う明日がやってくるよね」「あの北の国のヴァルキューレはどこまで飛んでいくのだろう」
この結末は、冒険心の否定では決してない。諦めのような決心、楽天的な妥協、自由に伴う責任の自覚は、むしろ、自由への渇望が普遍的なテーマであることを示している。そして、少女マンガが昔も今も様々な形でのトランスジェンダーを追求していることは、意識的にせよ無意識にせよ、ジェンダーフリーの世界、女らしさという名の鎖からの解放の試みなのである。