レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

エスタ・サマソンは不美人か?

2012-04-18 10:42:02 | 
 このごろ、ディケンズをあれこれ読んでいる。
 『荒涼館』、とある一族で、財産分けをめぐっての裁判が延々と続いており、それで関わった多くの人が迷惑している。その当事者であるけど冷静に身をひいている高潔な紳士がおり、彼のもとにひきとられている身寄りのない娘エスタが主人公。
 この小説を読んで、興味をひかれた二点。
 一つ目。脇役で、アフリカへの慈善活動に熱心な婦人が出てくる。しかし自分の家庭はほったらかしであり、娘の世話もしておらず、娘は母の思惑も無視して結婚。 婦人の周囲にはほかにも活動家がいて、彼女たちは、家庭の主婦などは視野が狭いとして軽蔑している。作品としてはそういう態度にはやはり否定的である。
 女性の役割を「家庭の天使」としておだてながら、妻・母として限定・抑圧することは大いに反発をよぶことになり、ヴァージニア・ウルフあたりの名前がそこで出てくるが(詳しくは知らん)、そういう流れの中では、上記の婦人たちは保守的な視野からのカリカチュアだろうか。
 ここで思い出すのは、現代映画の『点子ちゃんとアントン』。エーリヒ・ケストナーの児童文学が原作で、お金持ちの子「点子ちゃん」(単に呼び名としてこう訳してある)と、貧しい母子家庭のアントンの交流。原作では、点子の母は単に有閑夫人でなにもしていないけど、映画ではママはボランティアでアフリカの子供たちのための福祉活動に飛び回っている。パパは医者。ママが留守がちなので寂しいという視点はあっても、活動への非難があるふうには見えない。結末では、むしろパパのほうが、家にいる時間を増やすために近くの病院に移る。子供をかまうのは母だけの仕事ではないのだと、いかにも現代女性の監督らしいアレンジである。
 もう一つ。主人公エスタの容姿。
 私がそもそもこの小説を初めて知ったのは、小谷野敦氏の『美人好きは罪悪か?』だった。小説のヒロインとはたいてい美人設定であるが、珍しくそうでないものの例として挙がっていた。(そのまえに、『ジェイン・エア』は美人でない設定なのに映画化されて不美人だったことがないという指摘がある) 「エスター・サマソンも、やはり不美人ながら、人柄がよく、男にもてる」 テレビドラマ化を見たら、「エスターを演じるアンナ・マックスウェル・マーティンという女優が、じっさい割と不美人なのである。それでも、観ていると次第に好感を抱くようになるけれど、ふと気づくとやはり不美人なのだ。これは凄い女優を見つけたものだと思ったが」云々。
 しかし、「登場人物紹介」に不美人とは書かれていない。とある老貴族の若い妻が美貌の主で、エスタはこの婦人にそっくりだとも書いてある。確かに、美形と非美形でも似ていることはあるけれど・・・。はなはだ疑問に思って読んだが、病気できれいな顔が損なわれたと複数の人物のセリフで言われている。「私は美人ではありません」という自己申告が一度なされているだけなのだ。素直に読めば、本来は美人設定だと思うのが普通ではなかろうか? それなのに不美人女優をあてたのは顰蹙をかわなかったろうか?  (載っている写真では、確かに美人ではない、しかし不美人と言い切るほどとも思えない) 製作者に強い主張があったのだろうか。


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