遠藤周作『深い河』を読んだのはもう12年まえであり、講談社文庫だった。そのときと本の状態がいまは変わっているのかどうかは知らない。いずれにせよ、主要人物の一人が瀕死であることを告げるセリフがラストにあった。そのページの最後の行まで。そしてページをめくるともう小説の続きはない。ーーどうもそれは落ち着きの悪さを感じた。
本屋のレジあたりに置いてある出版社の冊子をもらってくることは既に何年も習慣で趣味になっている。それらの冊子のうち、幻冬舎の「星星峡」は、作品によって一段組と二段組の違いがあるが、その号の最後のページで、余白があるならば「終」または「続く」と書かれているのに、ページのぎりぎりまで文章が達している場合にはそれがない。右側のページでそれならばまだいいが、左側ページの最後の行まで文章があるのに、めくったらほかのになっている、これはなんとなくイヤだ。
同様の冊子であるポプラ社の「asta」は、連載にせよ読み切りにせよ、その号の最後には「*」みたいなマークをつけている。そうでなくとも、最終ページには余白が充分に出るようにページを組んである。
小学館の「きらら」は、「続く」と書かれる。
小さいことながら、雰囲気というものは大切だ。特に、物語の最後には余韻を味わいたい。なるべくならば、最終ページにはいくらかの余白を持たせる構成を望む。
本屋のレジあたりに置いてある出版社の冊子をもらってくることは既に何年も習慣で趣味になっている。それらの冊子のうち、幻冬舎の「星星峡」は、作品によって一段組と二段組の違いがあるが、その号の最後のページで、余白があるならば「終」または「続く」と書かれているのに、ページのぎりぎりまで文章が達している場合にはそれがない。右側のページでそれならばまだいいが、左側ページの最後の行まで文章があるのに、めくったらほかのになっている、これはなんとなくイヤだ。
同様の冊子であるポプラ社の「asta」は、連載にせよ読み切りにせよ、その号の最後には「*」みたいなマークをつけている。そうでなくとも、最終ページには余白が充分に出るようにページを組んである。
小学館の「きらら」は、「続く」と書かれる。
小さいことながら、雰囲気というものは大切だ。特に、物語の最後には余韻を味わいたい。なるべくならば、最終ページにはいくらかの余白を持たせる構成を望む。