ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

恩返し

2009年05月19日 | ノンジャンル
この病気に関しては、私は入院という選択肢を選ばず、
通院での治療回復を選んだ。

完全に仕事から離れるということが出来なかった、或いは、
そうすることで自身がだめになってしまうような
言い表しようのない恐怖心があった。

どういう形にせよ、日々の仕事の流れに繋がっていたかった
はずである。
パソコン、インターネットの普及により、自宅でも仕事の
経緯が即時的にわかり、対応が可能であったことに今でも
感謝している。

主治医の院長先生はあまり触れられなかったが、
担当ソーシャルワーカーは自助グループへの参加を折に触れて
勧めてくれていた。

もっとも平日は忙しく、休日は通院があり、自助グループまで
となると休日自体が潰れてしまう。

月に一度の院内例会が私にとっての自助活動の一つであると
考えている。

院内例会には、患者本人はもちろんのこと、家族、
ソーシャルワーカー、福祉関係者、 医師、看護師が
皆参加される。断酒会メンバーも、AAメンバーも、
あらゆる人達が集まるその場は、大変貴重な会合であると
考えているし、自身にとっても安心できる場なのである。

同時に、病院に駆け込むことで断酒に踏み切り、これまでの
お世話でそれが継続できていることの感謝の思いを自分なりに
お返しできる場だとも考えている。

時に、娘や、息子を連れていくのも、その意味が大きい。
子供達には関係ない事であるから、例会の後は楽しみに
している食事や、買い物と、いささか高くついて
しまうのだが、飲みに行くことを思えば安いものである。

要するに、私は病院の関係者に対しては深い恩を感じて
いるが、自助グループについては恩も義務も感じていない。
将来のことはわからないので、お世話になることもあるかも
しれないし、なにがしかのお役に立てることも
あるかもしれない。

しかしながら、わからないのは、自助グループによって
自身の断酒、つまり生き延びる ということを実現して
もらいながら、それが実現すると自助グループを離れる人が
多いということである。

この世には様々な人がいて社会を形成している。
少なくとも世捨て人でもない限り、人は人との関わりの中で
生きていくほかはない。つまり、人と会うということであり、
それがそもそも何々会となっているだけである。
いうなれば、特定のグループに所属せずとも、なにがしかの
人の集まりに所属しているのである。それが社会生活
というものなのだ。

いずれの場であろうと、それが社会の縮図である以上、
そこで起きることはどこでも起きることなのである。
命に関わる一大事を乗り越える応援をしてくれた仲間の
いる場を、そして乗り越えることができた恩を感じる場を
悪しざまに批判する人の気がしれない。

社会の縮図である以上、完璧な場というものはない。
その場をより良くしていこうとするならわかるが、
離れていくというのはどういうことであろう。

よしんば、どうしても自分に合わない場で苦しいとすれば、
他の場を見つければ良いと 思うのだが。
どうも私には、自助グループに受けた恩は、自助グループに
返さねばならないという変な固定的義務感が、かえって
その人をしてその場を苦しいものにしているような
気がしてならない。

先生が仰っていた。自助グループは苦しい自分を温かく
迎えてくれる場である。
何の気兼ねもいらない。何も、大仰なことを言わなくて良い。
「今日も一日飲まずに頑張ります。」でいいではないか。
その一言が、なかなかやめられない人や、初心の人の励みと
なるかもしれない。それが、恩返しともなる。。。と。

根本的な事は、自分がお陰さまで断酒継続出来ています
という感謝を、どう返していくのかということだけである。
恩のある自助グループの運営だとか、世話役だとかに
就いて、会を盛り上げていくのもよし、一人の初心の人に
手を差し伸べるもよし、その人それぞれの想いとやり方で
良いのではないか。

自分が頂いたものを感謝し、そのお返しを自分なりに
していく。それがまた他の人にとって「頂いたもの」
となり、その人なりのお返しをするという連鎖が、
そもそも自助グループの仲間を繋いでいるのでは
ないのだろうか。

参加していない私がとやかく言うことではないが、
その繋がりというものは、たとえば 金銭的な貸借とは
根本的に異なると断言する。
むしろそれがあれば、そのグループなり、 会というものは
実質的に破綻しているといってもよい。

病院でも、金銭的な貸し借りは断固として禁じている。
患者や家族から、病院関係者への贈り物についても、
飴一つ受け取らない。これは驚くほど徹底されている。

私が感じているのは、人に対する恩であって、
物質的な恩ではない。
ならば、お返しするものも物質的なものではお返しできない。

まだまだ自分のこと、自分の家族のことだけで精一杯である。
せめてもと思いながら、例会で体験を話し、同時に
聞かせて頂き、自身の体験から感じたこと、考えたことを
まとめながら、何かの参考になればとブログの記事として
アップしている。

今のところ、これで精一杯である。



通院治療

2009年05月18日 | ノンジャンル
いわゆるアル中というものは、昔であれば病院や施設に
隔離し、アルコールのない世界での規則正しい生活で
矯正し、更生させるほかはないと考えられていた。

それでもいざ退院すれば再飲酒してもとの木阿弥となり、
入退院を繰り返す患者が数知れず、この病気の治療、回復は
不可能とされていた。

つまり、医師自体がさじを投げ、避けてきた
医療分野であった。

現在私がお世話になっているクリニックでは、通院治療
というものを根本にした初めての専門病院であり、
28年にわたり多くの回復実績を上げてきた。

開院を喜んだのは患者だけであり、家族にしても
医療関係者にしても大反対であったそうである。
通院でアル中を治療するなど、絶対に不可能であり、
あり得ないと考えられていた時代である。
家族は家族で、そんな通院などでは初めから無理だし、
それより何より、入院してもらわないと困るというのが
大方の意見であったそうだ。

無理もない事である。

拘束を必要とする病状や、内科的に必要な場合のために、
入院設備を持った病院を別に設けてはいるが、
基本的な方針は、患者自らが自分の意志で通院して、
断酒を継続していくということである。

いわゆる、ひきこもり状態というのが、それが病院で
あろうと自宅であろうと最も回復を遅らせることになる
という慧眼から、自らの足で通院し、実社会の中で一日を
飲まずに過ごすということを治療方針の
第一義とされている。

病院へ辿り着くまでには、お酒を手に入れる場は
いくらでもある。病院から帰る時も同じである。
飲み屋、自動販売機、コンビニなどなど、ありとあらゆる
場で容易にお酒は手に入れられる。
その場をやり過ごしながら病院へ足を運ぶ。そして無事に
家に帰る。

ほとんど不可能だと思われるのが当たり前なのだが、
実はそこに非常に大きな意味がある。

患者は誰しも、飲む、飲まないは、自分自身であるという
ごく単純かつ当たり前のことを思い知らされるのである。

朝、起きる。食事をして、身支度をして、病院へと足を運ぶ。
診察を受け、処置、処方を受け、家へと帰る。
一日中家にひきこもっていることから考えれば、
雲泥の差なのである。

暇を持て余すということを極力避けねばならないから、
無職の人であれば、デイケアが あったり、福祉作業などの
行動の機会がある。生きるということは頭を働かせ、身体を
動かすことであるから、これを離れては、生きる意欲自体を
阻害してしまう。

なかには、抗酒剤を飲むためだけに通院している人もいる。
わざわざお金と時間を遣って通院するより、ある程度の期間の
処方をしてもらって、家で服用すれば良いではないかと
思う人も多いだろうし、患者の中にもそう考える人は
少なくない。

だが、病院へ自ら足を運び、抗酒剤を服用して、今日もまた
一日飲まないと決意を新たに、誘惑の多い家路を行く人と、
家で抗酒剤を服用するだけの人とは、その一日の中味が
まるで違うのである。

実社会の生活の中で病院へ通い、自助グループに通い、
その一日を飲まないで生きていく中で、断酒の意志も
徐々にではあるが硬く固めていけるのであろう。

ともかくも、外へ出て、動くことである。
生きるということをしないで、生きているだけと
なっていれば、これは普通の人でも苦しい事に違いない。
生きるとは、思考と共に行動であるはずなのだから、
通院、自助グループ通いは、断酒、つまり生きる訓練である
と言えよう。

端的に言うなら、心身の活性の為には、屋内で機械相手に
運動するよりも、屋外で五感を働かせながら運動する方が
よほど効果が高いということである。



キリンの首

2009年05月17日 | ノンジャンル
メンデルの遺伝の原理は、進化論を唱えるダーウィンに
とっては、大きな障害となったのだが、突然変異という
理論によって進化論の確立が成された。

理論の話しではない。

地球誕生、生命の発生から、様々な過酷な環境の変化に伴い、
生物は淘汰され、適応するための進化を繰り返し、現在の
安定形質に至っている。
中にはほとんど進化を必要としなかった種もある。

いずれにせよ現在の形は、変化から安定へと到達した
結果であり、更なる進化というものは考えにくい。
もっとも、地球環境の想像を絶する変化というものが
長期間にわたって再び起こるとき、どう適応するかは
解らないが、少なくとも環境を変える能力を身につけた
裸のサルである人間自体の進化というものは考えにくい。

ところで、キリンの長い首というものは非常に興味深い。
他の殆んどの草食動物が大地に近い身体の構造で安定して
いるにもかかわらず、キリンだけは特殊な長い首を持つ。

行き着くところが安定という形状であることを考えれば、
非常に不安定な形状に落ち着いたのが不思議である。
命を永らえ、種を保存するために、激動する環境の変化に
適応してきた進化論から見ても不可思議である。

実は、この長い首は、キリンの種の願望の結果だと見る説が
現在の主流となっている。
つまり、もともとは他の草食動物と同じ形状であった
キリンが、より高い位置の木の葉を捕食できるようにと
切望した結果だというのである。

木々にしても、いつも食われてばかりでは命に関わるので、
上へ上へと伸び、動物の捕食できる位置よりも高いところに
葉を茂らせるという策に出た。

大地の草や、捕食できる葉の高さが同じであれば、
草食動物の中で熾烈な競争が始まる。

キリンは、できるだけ首を上へ伸ばして、少しでも高い
位置の葉を食べようと、努力してきたのである。
しかも、突然変異のように一代ではなく、何世代にも
わたって、その願望を継ぎながら、短い首を徐々に
伸ばしていったのである。

結果として現在の身体の構造は、他の草食動物とは一線を
画した捕食場所を確保し、尚且つ肉食動物の接近をいち早く
察知できる警戒態勢を常に取れるという形に
落ち着いたのである。

他に類を見ない知的レベルを実現した人類が、人生は
一度だけであると、個人的、刹那的な享楽に終始するとき、
このキリンの首に思いを馳せ、恥を知るべきではないか。

我々に理想や願望があるなら、その実現のために弛まない
努力を継続していくべきであり、自身の一生が終わった後も
その実現への努力というものが受け継がれていく
べきであろう。

例としては良くはないが、莫大な財宝が共に埋蔵されている
古墳から遥かに離れた地点から地下道を掘り、そのお宝を
頂戴しようとする盗賊の一族は、何世代にもわたって
地下道を掘り続け、ようやく財宝を手にするのは
玄孫(やしゃご)の代とすれば、4世代は、ただ穴を
掘るだけの人生であったことになる。

現代人から見ればなんと意味のない無駄な人生だと
思うだろうが、いつかその一族に富裕が訪れるのを
夢見ながら掘り続けて、一生を終えた人の幸不幸は、
その本人にしかわからない。

キリンにしても、ある世代では、1センチしか伸びなかった
としても、100世代にわたれば、1メートル伸びる
ことになる。
牛のような首が、この気の遠くなるような世代を経た
努力の結果、現在のキリンの首の長さになったことを思えば、
我々も自身が見ることはないであろう未来に目を向けて、
今できることを精一杯して生きていこうではないかと
思うのである。




データ

2009年05月16日 | ノンジャンル
数年前だったか、お世話になっているクリニックの
院長先生の話で、依存症と診断された患者数、その後の
断酒継続数、再飲酒者数、経過についての統計をまとめる
作業を始めているということを聞いた。

その統計データは、資料としてまとめられているのか
お聞きすると、ほぼ整理されてきているとのこと。
公開されるのもそう遠い先のことではないようだが、
一部を教えてくださった。

年間数百人の外来患者。アルコール依存症と診断された
人のうち、一年の断酒継続に達する人は28%。
そのうち、2年に達する人は約3割ダウンの20%。
さらに3年に達する人は再び3割ダウンの14% 。

3年を越えると、ほぼ横ばいとなり、安定するとのこと。
やはり、石の上にも三年と言うのは本当で、一つの大きな
節目であり、我々にとっては再生の道を進む上で越えるべき
大きな壁であるだろう。

実に100人中14人がこの壁を乗り越えるという
生のデータである。
これを多いと見るか、少ないと見るかは別にして、
通院治療の魁として開院した専門病院でのデータであるから、
これがアル症と、その回復の実態であると言って
差し支えない。

もちろん、再飲酒を繰り返しながらも、継続に繋がって
いく人もいれば、3年以降に再飲酒をする人もいる。
実際のデータは28年にわたる診療と、その回復経過の
膨大な統計となるので、公開資料となったときに詳しく
参照したいと考えている。

一患者である自身にとってこのデータが何を意味するのか。
継続一年を越えた頃の自分なら、100人中28人のうちの
一人であることに、自負心を持ったであろう。

3年を越えた今、100人中14人のうちの一人であることに
感じるのは、自身の幸運と、守られたことへの感謝なのである。
やはり、3年を越えると、「何か」が自分の中で
変わる様である。

今月末で、断酒丸4年となり、自身のゼロ回帰の指標である
5年目に突入することとなる。



囚われと解放

2009年05月16日 | ノンジャンル
依存症というものは様々な形で表れるが、本人の心身の健康、
家庭生活、社会生活、つまり人間関係をも全て失うのは、
アルコールを含む薬物中毒、依存である。

体内に取り込むことで神経も肉体も傷めつけ、それと共に
精神の破綻をきたし、人間関係を壊していく。
最終的には命さえ失うことになってしまう。

ネット依存は、生活の上では不健全な状態を作り易くし、
それが徐々に肉体的、精神的な不健全さにつながる
可能性はあるものの、脳を破壊することはない。

買い物依存にしても、ギャンブル依存にしても、同じく
神経に直接作用する物質を体内に取り込むわけでは
ないから、直接的に命に関わることはないが、経済面で
破綻につながり易く、結果として大きなストレスを
心身に与え、その解放のためにまた繰り返す悪循環がある。

コーヒーやタバコなどの嗜好品は、体内に取り込む
とはいえ、アルコールや薬物などのように意識阻害を
起こすことはない。
喫煙運転が禁止されないのも、その所以である。
コーヒーの飲みすぎや、タバコの吸い過ぎで頭がおかしく
なることはない。無論、過ぎたれば健康を害することは
周知の通りである。

セックス依存についても、それが犯罪に発展しなければ
特にこれといった害はないように思える。

人間関係においての依存は、共依存などが広く
知られているが、後天的な原因ばかりに注目すると
本質を見誤る。先天的な、つまり遺伝的要素は、
他の依存症と同じく、大きく関係している。

こうしてあげてみれば、いずれもほどほどの程度であれば、
全て人生を楽しく豊かにするものばかりであろう。
麻薬などの薬物は別格であるが、それ自体が悪という
わけではない。危険な昏睡状態からの覚醒、末期的な
崩壊時期の鎮痛など、薬物である以上、麻薬であっても
有用することができる。

どうやら、「過ぎる」ということと、「囚われる」
ということに関連して、自分で制御不能となることが、
悪い意味での依存症ということになろうか。

全て該当しないと考えている人でも、実は仕事に没頭する
快感に囚われてやり過ぎてしまうのであれば、
すでに立派な仕事依存症である。

生きるために必死であった時代なら、むしろ仕事に
囚われないで、生きることに囚われているのであるから、
それは反面幸せであるかもしれない。

責任と義務に囚われて仕事をし過ぎるなら、やがては同じく
破綻する時がやってくる。
歓びと楽しみがそこになければ、精神の解放はない。

釣りバカの浜ちゃんにしても、全く仕事をしないで家族を
顧みず、釣りに囚われているとしたなら、釣り依存であろう。
そこに本当の楽しさも喜びもないはずである。

こうして羅列してみると、やはり最も厄介なのは
アルコールを含む薬物である。
体内に物質を入れ、その物質が神経に作用し、恍惚、
陶酔、快感、解放感を得さしめる。
飽きっぽい人間はより強い刺激を求め、同時に耐性を
形成していくので、摂取量は徐々に増大する。

エスカレートしていく過程はどの依存症も似たような
ものであろうが、結果として失うものが最も大きいのは
このアルコールを含む薬物である。

命に関わる以上、囚われて制御不能となった者は、
断固としてこれを断ち切る外に生き延びる手段はない。
これは、真理かどうかという事ではなく、自身が
そう断じて、囚われから自分を解放して生きていくのか
どうかということだけなのである。

私が「飲みたい」に囚われ続け、仮にほどほどに飲んで
生きられるだけ人生を楽しんで生きていくと考えれば、
それは私の自由ではあるが、同時に勝手我儘である以上、
一人で生きて行けばよい事である。

飲めない辛さよりも、飲まない生活で様々に見出した
喜びと楽しみが遥かに大きくなった今は、わざわざ
神経を麻痺させて、まともな思考の出来ない状態で
そんな到底割に合わない引き換えをしてしまうほどの
愚か者ではなくなったと、ほんの少しだけ自尊心を
撫でている。