この病気に関しては、私は入院という選択肢を選ばず、
通院での治療回復を選んだ。
完全に仕事から離れるということが出来なかった、或いは、
そうすることで自身がだめになってしまうような
言い表しようのない恐怖心があった。
どういう形にせよ、日々の仕事の流れに繋がっていたかった
はずである。
パソコン、インターネットの普及により、自宅でも仕事の
経緯が即時的にわかり、対応が可能であったことに今でも
感謝している。
主治医の院長先生はあまり触れられなかったが、
担当ソーシャルワーカーは自助グループへの参加を折に触れて
勧めてくれていた。
もっとも平日は忙しく、休日は通院があり、自助グループまで
となると休日自体が潰れてしまう。
月に一度の院内例会が私にとっての自助活動の一つであると
考えている。
院内例会には、患者本人はもちろんのこと、家族、
ソーシャルワーカー、福祉関係者、 医師、看護師が
皆参加される。断酒会メンバーも、AAメンバーも、
あらゆる人達が集まるその場は、大変貴重な会合であると
考えているし、自身にとっても安心できる場なのである。
同時に、病院に駆け込むことで断酒に踏み切り、これまでの
お世話でそれが継続できていることの感謝の思いを自分なりに
お返しできる場だとも考えている。
時に、娘や、息子を連れていくのも、その意味が大きい。
子供達には関係ない事であるから、例会の後は楽しみに
している食事や、買い物と、いささか高くついて
しまうのだが、飲みに行くことを思えば安いものである。
要するに、私は病院の関係者に対しては深い恩を感じて
いるが、自助グループについては恩も義務も感じていない。
将来のことはわからないので、お世話になることもあるかも
しれないし、なにがしかのお役に立てることも
あるかもしれない。
しかしながら、わからないのは、自助グループによって
自身の断酒、つまり生き延びる ということを実現して
もらいながら、それが実現すると自助グループを離れる人が
多いということである。
この世には様々な人がいて社会を形成している。
少なくとも世捨て人でもない限り、人は人との関わりの中で
生きていくほかはない。つまり、人と会うということであり、
それがそもそも何々会となっているだけである。
いうなれば、特定のグループに所属せずとも、なにがしかの
人の集まりに所属しているのである。それが社会生活
というものなのだ。
いずれの場であろうと、それが社会の縮図である以上、
そこで起きることはどこでも起きることなのである。
命に関わる一大事を乗り越える応援をしてくれた仲間の
いる場を、そして乗り越えることができた恩を感じる場を
悪しざまに批判する人の気がしれない。
社会の縮図である以上、完璧な場というものはない。
その場をより良くしていこうとするならわかるが、
離れていくというのはどういうことであろう。
よしんば、どうしても自分に合わない場で苦しいとすれば、
他の場を見つければ良いと 思うのだが。
どうも私には、自助グループに受けた恩は、自助グループに
返さねばならないという変な固定的義務感が、かえって
その人をしてその場を苦しいものにしているような
気がしてならない。
先生が仰っていた。自助グループは苦しい自分を温かく
迎えてくれる場である。
何の気兼ねもいらない。何も、大仰なことを言わなくて良い。
「今日も一日飲まずに頑張ります。」でいいではないか。
その一言が、なかなかやめられない人や、初心の人の励みと
なるかもしれない。それが、恩返しともなる。。。と。
根本的な事は、自分がお陰さまで断酒継続出来ています
という感謝を、どう返していくのかということだけである。
恩のある自助グループの運営だとか、世話役だとかに
就いて、会を盛り上げていくのもよし、一人の初心の人に
手を差し伸べるもよし、その人それぞれの想いとやり方で
良いのではないか。
自分が頂いたものを感謝し、そのお返しを自分なりに
していく。それがまた他の人にとって「頂いたもの」
となり、その人なりのお返しをするという連鎖が、
そもそも自助グループの仲間を繋いでいるのでは
ないのだろうか。
参加していない私がとやかく言うことではないが、
その繋がりというものは、たとえば 金銭的な貸借とは
根本的に異なると断言する。
むしろそれがあれば、そのグループなり、 会というものは
実質的に破綻しているといってもよい。
病院でも、金銭的な貸し借りは断固として禁じている。
患者や家族から、病院関係者への贈り物についても、
飴一つ受け取らない。これは驚くほど徹底されている。
私が感じているのは、人に対する恩であって、
物質的な恩ではない。
ならば、お返しするものも物質的なものではお返しできない。
まだまだ自分のこと、自分の家族のことだけで精一杯である。
せめてもと思いながら、例会で体験を話し、同時に
聞かせて頂き、自身の体験から感じたこと、考えたことを
まとめながら、何かの参考になればとブログの記事として
アップしている。
今のところ、これで精一杯である。
通院での治療回復を選んだ。
完全に仕事から離れるということが出来なかった、或いは、
そうすることで自身がだめになってしまうような
言い表しようのない恐怖心があった。
どういう形にせよ、日々の仕事の流れに繋がっていたかった
はずである。
パソコン、インターネットの普及により、自宅でも仕事の
経緯が即時的にわかり、対応が可能であったことに今でも
感謝している。
主治医の院長先生はあまり触れられなかったが、
担当ソーシャルワーカーは自助グループへの参加を折に触れて
勧めてくれていた。
もっとも平日は忙しく、休日は通院があり、自助グループまで
となると休日自体が潰れてしまう。
月に一度の院内例会が私にとっての自助活動の一つであると
考えている。
院内例会には、患者本人はもちろんのこと、家族、
ソーシャルワーカー、福祉関係者、 医師、看護師が
皆参加される。断酒会メンバーも、AAメンバーも、
あらゆる人達が集まるその場は、大変貴重な会合であると
考えているし、自身にとっても安心できる場なのである。
同時に、病院に駆け込むことで断酒に踏み切り、これまでの
お世話でそれが継続できていることの感謝の思いを自分なりに
お返しできる場だとも考えている。
時に、娘や、息子を連れていくのも、その意味が大きい。
子供達には関係ない事であるから、例会の後は楽しみに
している食事や、買い物と、いささか高くついて
しまうのだが、飲みに行くことを思えば安いものである。
要するに、私は病院の関係者に対しては深い恩を感じて
いるが、自助グループについては恩も義務も感じていない。
将来のことはわからないので、お世話になることもあるかも
しれないし、なにがしかのお役に立てることも
あるかもしれない。
しかしながら、わからないのは、自助グループによって
自身の断酒、つまり生き延びる ということを実現して
もらいながら、それが実現すると自助グループを離れる人が
多いということである。
この世には様々な人がいて社会を形成している。
少なくとも世捨て人でもない限り、人は人との関わりの中で
生きていくほかはない。つまり、人と会うということであり、
それがそもそも何々会となっているだけである。
いうなれば、特定のグループに所属せずとも、なにがしかの
人の集まりに所属しているのである。それが社会生活
というものなのだ。
いずれの場であろうと、それが社会の縮図である以上、
そこで起きることはどこでも起きることなのである。
命に関わる一大事を乗り越える応援をしてくれた仲間の
いる場を、そして乗り越えることができた恩を感じる場を
悪しざまに批判する人の気がしれない。
社会の縮図である以上、完璧な場というものはない。
その場をより良くしていこうとするならわかるが、
離れていくというのはどういうことであろう。
よしんば、どうしても自分に合わない場で苦しいとすれば、
他の場を見つければ良いと 思うのだが。
どうも私には、自助グループに受けた恩は、自助グループに
返さねばならないという変な固定的義務感が、かえって
その人をしてその場を苦しいものにしているような
気がしてならない。
先生が仰っていた。自助グループは苦しい自分を温かく
迎えてくれる場である。
何の気兼ねもいらない。何も、大仰なことを言わなくて良い。
「今日も一日飲まずに頑張ります。」でいいではないか。
その一言が、なかなかやめられない人や、初心の人の励みと
なるかもしれない。それが、恩返しともなる。。。と。
根本的な事は、自分がお陰さまで断酒継続出来ています
という感謝を、どう返していくのかということだけである。
恩のある自助グループの運営だとか、世話役だとかに
就いて、会を盛り上げていくのもよし、一人の初心の人に
手を差し伸べるもよし、その人それぞれの想いとやり方で
良いのではないか。
自分が頂いたものを感謝し、そのお返しを自分なりに
していく。それがまた他の人にとって「頂いたもの」
となり、その人なりのお返しをするという連鎖が、
そもそも自助グループの仲間を繋いでいるのでは
ないのだろうか。
参加していない私がとやかく言うことではないが、
その繋がりというものは、たとえば 金銭的な貸借とは
根本的に異なると断言する。
むしろそれがあれば、そのグループなり、 会というものは
実質的に破綻しているといってもよい。
病院でも、金銭的な貸し借りは断固として禁じている。
患者や家族から、病院関係者への贈り物についても、
飴一つ受け取らない。これは驚くほど徹底されている。
私が感じているのは、人に対する恩であって、
物質的な恩ではない。
ならば、お返しするものも物質的なものではお返しできない。
まだまだ自分のこと、自分の家族のことだけで精一杯である。
せめてもと思いながら、例会で体験を話し、同時に
聞かせて頂き、自身の体験から感じたこと、考えたことを
まとめながら、何かの参考になればとブログの記事として
アップしている。
今のところ、これで精一杯である。