ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

にんげん

2009年05月26日 | ノンジャンル
私が小学生の頃、「道徳」という授業科目があった。
確か、「にんげん」という副読本があり、それを読み合わせ
する中でそれぞれの感想を作文にしたりすることが多かった
ような記憶がある。

いわゆる同和教育の一環であったようだが、特に差別問題
ばかりを扱っていたわけでもなく、戦争や、今で言うところの
いじめの問題など、内容としては多岐にわたっていた。
いずれにせよ、物語であったり、詩であったり、手紙で
あったりと非常に興味深いものであった。

私自身、この副読本はいつも配布されるとすぐに全部目を
通したものである。

道徳の授業とはいっても、別段、教師が教条的に
「べきである」講義をするでもなく、「ねばならない」
説諭をするわけでもなかった。
ただ、その内容を生徒が読み、教師も読み、それぞれが
感じたことをまとめたりしていたと思う。

今、道徳を学校で授業として教えるのか、いや、そもそも
道徳などは家庭生活の体験の中で体得していくものだとか
議論されているようだが、少なくとも私の印象では、
学校での道徳の授業は、何かを「教わる」ものではなく、
「考える」ものであったということだ。

そういう意味では、それぞれの感じ方で、考えるという
授業があっても良いと思うのである。
家におじいちゃんやおばあちゃんがいないのは
珍しくなく、片親というのも実に多い。
両親共に不在がちな家もあるだろうし、昔と違って
家庭生活での体験や勉強の機会というのは、便利に
なった分、希薄となっている。

ひとつの物語なり、詩なりを題材として、それぞれの
感じ方や考えを交換することは大いに意味があると
思われるのだが。

うろ覚えではあるが、戦時中に子供を兵役にとられた
母親の物語があった。一人死に、二人死に、三人死にと、
わが子を失うごとに、お国のためだ、仕方がないという
表向きの言葉が消え、生きて帰って来い、戦争など
どうでもよいという真情が表れていく場面で、
胸にこう迫るものがあった。

その物語を朗読していた先生が突然、声を詰まらせた。
母親の心情に、その先生は涙されていたのである。
物語よりも、先生の涙の方がよほど衝撃であった。

道徳の授業が学校で必要かどうかという議論は、
私にはどうも根本的なところで的外れな議論としか
思えないのである。