いわゆるアル中というものは、昔であれば病院や施設に
隔離し、アルコールのない世界での規則正しい生活で
矯正し、更生させるほかはないと考えられていた。
それでもいざ退院すれば再飲酒してもとの木阿弥となり、
入退院を繰り返す患者が数知れず、この病気の治療、回復は
不可能とされていた。
つまり、医師自体がさじを投げ、避けてきた
医療分野であった。
現在私がお世話になっているクリニックでは、通院治療
というものを根本にした初めての専門病院であり、
28年にわたり多くの回復実績を上げてきた。
開院を喜んだのは患者だけであり、家族にしても
医療関係者にしても大反対であったそうである。
通院でアル中を治療するなど、絶対に不可能であり、
あり得ないと考えられていた時代である。
家族は家族で、そんな通院などでは初めから無理だし、
それより何より、入院してもらわないと困るというのが
大方の意見であったそうだ。
無理もない事である。
拘束を必要とする病状や、内科的に必要な場合のために、
入院設備を持った病院を別に設けてはいるが、
基本的な方針は、患者自らが自分の意志で通院して、
断酒を継続していくということである。
いわゆる、ひきこもり状態というのが、それが病院で
あろうと自宅であろうと最も回復を遅らせることになる
という慧眼から、自らの足で通院し、実社会の中で一日を
飲まずに過ごすということを治療方針の
第一義とされている。
病院へ辿り着くまでには、お酒を手に入れる場は
いくらでもある。病院から帰る時も同じである。
飲み屋、自動販売機、コンビニなどなど、ありとあらゆる
場で容易にお酒は手に入れられる。
その場をやり過ごしながら病院へ足を運ぶ。そして無事に
家に帰る。
ほとんど不可能だと思われるのが当たり前なのだが、
実はそこに非常に大きな意味がある。
患者は誰しも、飲む、飲まないは、自分自身であるという
ごく単純かつ当たり前のことを思い知らされるのである。
朝、起きる。食事をして、身支度をして、病院へと足を運ぶ。
診察を受け、処置、処方を受け、家へと帰る。
一日中家にひきこもっていることから考えれば、
雲泥の差なのである。
暇を持て余すということを極力避けねばならないから、
無職の人であれば、デイケアが あったり、福祉作業などの
行動の機会がある。生きるということは頭を働かせ、身体を
動かすことであるから、これを離れては、生きる意欲自体を
阻害してしまう。
なかには、抗酒剤を飲むためだけに通院している人もいる。
わざわざお金と時間を遣って通院するより、ある程度の期間の
処方をしてもらって、家で服用すれば良いではないかと
思う人も多いだろうし、患者の中にもそう考える人は
少なくない。
だが、病院へ自ら足を運び、抗酒剤を服用して、今日もまた
一日飲まないと決意を新たに、誘惑の多い家路を行く人と、
家で抗酒剤を服用するだけの人とは、その一日の中味が
まるで違うのである。
実社会の生活の中で病院へ通い、自助グループに通い、
その一日を飲まないで生きていく中で、断酒の意志も
徐々にではあるが硬く固めていけるのであろう。
ともかくも、外へ出て、動くことである。
生きるということをしないで、生きているだけと
なっていれば、これは普通の人でも苦しい事に違いない。
生きるとは、思考と共に行動であるはずなのだから、
通院、自助グループ通いは、断酒、つまり生きる訓練である
と言えよう。
端的に言うなら、心身の活性の為には、屋内で機械相手に
運動するよりも、屋外で五感を働かせながら運動する方が
よほど効果が高いということである。
隔離し、アルコールのない世界での規則正しい生活で
矯正し、更生させるほかはないと考えられていた。
それでもいざ退院すれば再飲酒してもとの木阿弥となり、
入退院を繰り返す患者が数知れず、この病気の治療、回復は
不可能とされていた。
つまり、医師自体がさじを投げ、避けてきた
医療分野であった。
現在私がお世話になっているクリニックでは、通院治療
というものを根本にした初めての専門病院であり、
28年にわたり多くの回復実績を上げてきた。
開院を喜んだのは患者だけであり、家族にしても
医療関係者にしても大反対であったそうである。
通院でアル中を治療するなど、絶対に不可能であり、
あり得ないと考えられていた時代である。
家族は家族で、そんな通院などでは初めから無理だし、
それより何より、入院してもらわないと困るというのが
大方の意見であったそうだ。
無理もない事である。
拘束を必要とする病状や、内科的に必要な場合のために、
入院設備を持った病院を別に設けてはいるが、
基本的な方針は、患者自らが自分の意志で通院して、
断酒を継続していくということである。
いわゆる、ひきこもり状態というのが、それが病院で
あろうと自宅であろうと最も回復を遅らせることになる
という慧眼から、自らの足で通院し、実社会の中で一日を
飲まずに過ごすということを治療方針の
第一義とされている。
病院へ辿り着くまでには、お酒を手に入れる場は
いくらでもある。病院から帰る時も同じである。
飲み屋、自動販売機、コンビニなどなど、ありとあらゆる
場で容易にお酒は手に入れられる。
その場をやり過ごしながら病院へ足を運ぶ。そして無事に
家に帰る。
ほとんど不可能だと思われるのが当たり前なのだが、
実はそこに非常に大きな意味がある。
患者は誰しも、飲む、飲まないは、自分自身であるという
ごく単純かつ当たり前のことを思い知らされるのである。
朝、起きる。食事をして、身支度をして、病院へと足を運ぶ。
診察を受け、処置、処方を受け、家へと帰る。
一日中家にひきこもっていることから考えれば、
雲泥の差なのである。
暇を持て余すということを極力避けねばならないから、
無職の人であれば、デイケアが あったり、福祉作業などの
行動の機会がある。生きるということは頭を働かせ、身体を
動かすことであるから、これを離れては、生きる意欲自体を
阻害してしまう。
なかには、抗酒剤を飲むためだけに通院している人もいる。
わざわざお金と時間を遣って通院するより、ある程度の期間の
処方をしてもらって、家で服用すれば良いではないかと
思う人も多いだろうし、患者の中にもそう考える人は
少なくない。
だが、病院へ自ら足を運び、抗酒剤を服用して、今日もまた
一日飲まないと決意を新たに、誘惑の多い家路を行く人と、
家で抗酒剤を服用するだけの人とは、その一日の中味が
まるで違うのである。
実社会の生活の中で病院へ通い、自助グループに通い、
その一日を飲まないで生きていく中で、断酒の意志も
徐々にではあるが硬く固めていけるのであろう。
ともかくも、外へ出て、動くことである。
生きるということをしないで、生きているだけと
なっていれば、これは普通の人でも苦しい事に違いない。
生きるとは、思考と共に行動であるはずなのだから、
通院、自助グループ通いは、断酒、つまり生きる訓練である
と言えよう。
端的に言うなら、心身の活性の為には、屋内で機械相手に
運動するよりも、屋外で五感を働かせながら運動する方が
よほど効果が高いということである。