アルコール依存症は、糖尿病と同様、生活習慣病であり、
断酒により病状を抑え、健康と健全な生活を取り戻す事は
可能であるが、病気それ自体を完治することはできない。
つまり、再びお酒を飲めば、容易に最悪の病状を取り戻す
ことになる。つまり再発である。
この病気については、基本的な認識であるが、しばしばこの
認識についての議論がなされる。
この病気になったことをきっかけに、アルコールの
弊害を知り、認識した上で、節度ある飲酒が可能であるという
意見と、いや、断酒しか回復の道はないという意見との
交換である。
いずれにせよ、「飲みたい」が前提で、「飲める」か
「飲めないか」の議論であれば、笑止である。
節酒は、「飲みたい」から昇華する事はなく、断酒は、
「飲みたい」から「飲まない」へ、そして「いかに生きるか」
へと昇華して行く事ができる。
断酒にせよ節酒にせよ、ケースバイケースであることには
間違いない。断酒しかないというのは、歴史的実証の
経緯と、実際の症例の統計的なデータからも明らかで、
回復という点では絶対条件といっても過言ではないだろうが、
それでも絶対的真理ではない。
たとえば原理のように、不変で普遍であり、どこの誰が
試しても同じ結果を得るという法則ではないことは、
節酒にせよ断酒にせよ同じことである。
ただ、節酒が可能となったケースは私は知る由もないが、
仮にあったとしても極少数であることは間違いない。
通院治療の魁ともいえるクリニックの院長先生にしても、
そういった例はかつて見たことがないとのこと。
自分は果たしてどうなのか、つまり、再びコントロールを
取り戻して、飲めるようになるのかどうかという問題は、
その人個人の問題である。
自分で試して、その結果を検証すればよい。
元の木阿弥となれば、自分には断酒しかないと実証も、
納得もできるであろう。
自分がやらずとも、他の多くの人が実際に試して、
その結果がどうであったかを知ることができるのも例会の
一つの意義である。
それでも納得できず、自分だけは違うと思うなら、自分で
やってみればよい。それだけのことである。
仮に節酒に成功し、問題なく生活をしていけるならそれは
それでよい。ただ、この場合は自分だけは違う、自分が
特別なケースだということを認識しておく必要はあると
思われる。
節酒ができる人に断酒を勧めたとしても問題はないし、
断酒しかない人には勧めるべきであるから、断酒については、
絶対的ではないにせよ、人に勧めて差し支えない。
極限られた少数派の節酒可能者が、人に対して、その節酒を
勧めるなど、不埒にもほどがある。
節酒ができる特別さに感謝して、自身の生活を楽しめば
よいことである。人にその話しをする、節酒を勧めるなどは
人をわざわざ害するに等しい。
100人に1人、節酒が可能なケースがあったとして、
100人に節酒を勧めれば、1人は飲めることで歓ぶ
だろうが、99人は病状を再発、悪化させることとなる。
失う病気であることを考えれば、その99人に対して
いかに責任を取れるのであろうか。取れるわけがない。
100人に断酒を勧めた場合は、節酒のできる1人を
含めて、失うことよりも得ることのほうが大きいことは
自明であり、結果的には100人に利益をもたらすのである。
「勧める」ということはそういうことである。
自身で実証したことが、節酒可能という結果であれば、
自己満足で留めておけばよい。そもそも、分ち合う必要が
ないではないか。飲めるものが飲めないものと何を
分ち合うのか。
飲めないものに対し、飲めることをひけらかしたいので
あれば、これは唾棄すべき行為であることを知るべきである。
障害者の中で、健常な肉体をひけらかすような無恥な
行為であることを認識すらできないとすれば、これもまた
立派な精神疾患ともいえる。
議論すべき問題ではないことが根本的に明らかとなったと
思うが、我々としては、節酒可能と実証した人には、
我々のようにならずに良かったと考え、楽しく飲める
健全な生活を送っていって頂きたいと思う。
ただ、初めから責任の取りようもないようなことを
わざわざせずともよい。
具体的統計資料があるわけではないが、宝くじの一等に
当選するよりも低い確率のように思える。
宝くじに当たったなら、当たった当たったなどと触れ回らぬ
ほうがよいということである。
断酒により病状を抑え、健康と健全な生活を取り戻す事は
可能であるが、病気それ自体を完治することはできない。
つまり、再びお酒を飲めば、容易に最悪の病状を取り戻す
ことになる。つまり再発である。
この病気については、基本的な認識であるが、しばしばこの
認識についての議論がなされる。
この病気になったことをきっかけに、アルコールの
弊害を知り、認識した上で、節度ある飲酒が可能であるという
意見と、いや、断酒しか回復の道はないという意見との
交換である。
いずれにせよ、「飲みたい」が前提で、「飲める」か
「飲めないか」の議論であれば、笑止である。
節酒は、「飲みたい」から昇華する事はなく、断酒は、
「飲みたい」から「飲まない」へ、そして「いかに生きるか」
へと昇華して行く事ができる。
断酒にせよ節酒にせよ、ケースバイケースであることには
間違いない。断酒しかないというのは、歴史的実証の
経緯と、実際の症例の統計的なデータからも明らかで、
回復という点では絶対条件といっても過言ではないだろうが、
それでも絶対的真理ではない。
たとえば原理のように、不変で普遍であり、どこの誰が
試しても同じ結果を得るという法則ではないことは、
節酒にせよ断酒にせよ同じことである。
ただ、節酒が可能となったケースは私は知る由もないが、
仮にあったとしても極少数であることは間違いない。
通院治療の魁ともいえるクリニックの院長先生にしても、
そういった例はかつて見たことがないとのこと。
自分は果たしてどうなのか、つまり、再びコントロールを
取り戻して、飲めるようになるのかどうかという問題は、
その人個人の問題である。
自分で試して、その結果を検証すればよい。
元の木阿弥となれば、自分には断酒しかないと実証も、
納得もできるであろう。
自分がやらずとも、他の多くの人が実際に試して、
その結果がどうであったかを知ることができるのも例会の
一つの意義である。
それでも納得できず、自分だけは違うと思うなら、自分で
やってみればよい。それだけのことである。
仮に節酒に成功し、問題なく生活をしていけるならそれは
それでよい。ただ、この場合は自分だけは違う、自分が
特別なケースだということを認識しておく必要はあると
思われる。
節酒ができる人に断酒を勧めたとしても問題はないし、
断酒しかない人には勧めるべきであるから、断酒については、
絶対的ではないにせよ、人に勧めて差し支えない。
極限られた少数派の節酒可能者が、人に対して、その節酒を
勧めるなど、不埒にもほどがある。
節酒ができる特別さに感謝して、自身の生活を楽しめば
よいことである。人にその話しをする、節酒を勧めるなどは
人をわざわざ害するに等しい。
100人に1人、節酒が可能なケースがあったとして、
100人に節酒を勧めれば、1人は飲めることで歓ぶ
だろうが、99人は病状を再発、悪化させることとなる。
失う病気であることを考えれば、その99人に対して
いかに責任を取れるのであろうか。取れるわけがない。
100人に断酒を勧めた場合は、節酒のできる1人を
含めて、失うことよりも得ることのほうが大きいことは
自明であり、結果的には100人に利益をもたらすのである。
「勧める」ということはそういうことである。
自身で実証したことが、節酒可能という結果であれば、
自己満足で留めておけばよい。そもそも、分ち合う必要が
ないではないか。飲めるものが飲めないものと何を
分ち合うのか。
飲めないものに対し、飲めることをひけらかしたいので
あれば、これは唾棄すべき行為であることを知るべきである。
障害者の中で、健常な肉体をひけらかすような無恥な
行為であることを認識すらできないとすれば、これもまた
立派な精神疾患ともいえる。
議論すべき問題ではないことが根本的に明らかとなったと
思うが、我々としては、節酒可能と実証した人には、
我々のようにならずに良かったと考え、楽しく飲める
健全な生活を送っていって頂きたいと思う。
ただ、初めから責任の取りようもないようなことを
わざわざせずともよい。
具体的統計資料があるわけではないが、宝くじの一等に
当選するよりも低い確率のように思える。
宝くじに当たったなら、当たった当たったなどと触れ回らぬ
ほうがよいということである。