ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

正直者

2009年05月14日 | ノンジャンル
正直であることは善行とされ、嘘をつくことは悪行とされる。

本当の話かどうかはわからないが、ワシントンと桜の木の
話は、小学生のころに聞いた。
木を切ったワシントンが、父親に質された時、正直に自分が
切ったことを告白したという話である。

嘘をついて罪を免れようとせず、正直に告白する勇気を
持とうと教えられた記憶がある。

ところが実際の社会生活では、正直であり続けることは
ほとんど不可能である。本当に自分の心に正直に生きている
ものなどありえない。
嫌な客にも愛想を使い、心にもないお世辞を言い、理不尽で
あってもこちらが頭を下げねばならないことは数知れない。

自分に不正直なことを散々やってきた私にとっては、人の嘘は
明瞭に見極められる。見極めたうえで黙認することもままある。
己の好悪の感情はむしろどうでもよく、公にとって益となるか、
害となるかが重要なことであって、時に公のために
嘘をつくことも多いであろう。

そういう見方をすれば、大嘘つきであり、とても正直者とは
いえないが、少なくとも自身の犯した罪や、失敗、挫折など、
他人の反面教師となることについては正直でありたいと
考えている。それは、必ず公に益すると信じるからである。

成功の話は、他人に話をするときはどうしても自慢話と
なってしまい、多少の誇張が、つまり嘘が含まれる。
これは、失敗談に比べれば、その公に益するところは
大きくはないと感じる。

自分に関してだけで言えば、如何に生きるかという信念とも
いえる肝心要の部分において誤魔化したり、不正直であっては
ならないと思うが、何でもかんでも正直が善いという事はない。

自分が正直であるがために、人を傷つけ、人を害せばそれは
ただの自己満足の正直であって、言葉を変えれば、
我侭という事である。

人と人との関わり合いが社会の基本であれば、我侭に生きて
いくことは、少なくともその社会の中では無理であろう。
いかなる社会も、自由と権利、責任と義務という表裏一体で
形成されているのである。

さて、少し視点を変えれば、イソップの寓話に、斧を泉に
落とすきこりの話がある。落としたのは川であったり、
池であったり、現れるのはヘルメス神であったり、泉の精で
あったり、女神であったりするのだが、それはどうでもよい。

きこりが過って斧を落としてしまうと、現れた神が金の斧を
指し示し、きこりが落としたのはこの斧かと問う。
きこりは正直に違うと答え、再び現れた神が指し示す
銀の斧も自分の斧ではないと答える。

きこりの正直さを嘉した神は、金、銀の斧と、そのきこりの
元の斧とをすべてきこりに与える。
正直さを尊んだ寓話である。

ところが、この話を聞いたきこりの仲間が同じ場所へ出掛け、
わざと自分の斧を落とす。果たして、話のとおり神が現れ、
金の斧を指し示し、落としたのはこの斧かと問う。
男は、そうだ、その斧だと答え、金の斧を手に入れようと
するが、男の不正直に怒った神は、金、銀の斧どころか
元の斧さえも男に戻さなかった。

この寓話で、嘘をついた男は、その不純な動機は別として、
「金の斧が欲しい」という自分の気持ちについては正直で
あったといえる。きこりの話を聞いていれば、その話の
通りに事を運べばよかったものを、輝く黄金の斧を見て、
思わずそれが自分の斧だと言ってしまったのである。
人として可愛気のある、正直な男ではないだろうか。

私なら、不純な動機をひた隠し、きこりの話の通り、
「正直に」金の斧も銀の斧も違うと言って、3本の斧を
手にするだろう。

だがしかし、相手は神であるから、その不純な心根を
初めから承知で、結局は同じように自分の斧を失うだけで
あるかもしれない。
であれば、正直に、金の斧と銀の斧が欲しいと神に言えば
良いのか。

それで、その男の願いが叶えば、この寓話自体が破綻する。
もちろん、不純な動機で手に入れることに成功したとしても
同じことである。

ただ、欲しいという正直な気持ちに神が応えて、その男に
金と銀の斧を与えたとしたら、神というものもまんざら
捨てたものではないと思うのである。