ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

言う」 と 「聞く

2009年05月03日 | ノンジャンル
例会の基本は言いっぱなしの聞きっぱなしである。
自身の体験を話し、人の体験を聞くことに、議論の
必要はない。いや、むしろ議論すべきテーマがない。

話すという吐き出しで自身が楽になり、聞くという忍耐で、
自分を振り返る持久力をつける。
これはまさに治療の一貫で、回復のプログラムであり、
議論はその治療、回復に対してはマイナスでしかないことは
明らかである。

日常で見れば、ともかくも自分の話をしないではいられない
人と、ほとんど聞き役にまわって人の話を聞くタイプとに
大きく分かれるようである。

話さないではいられない人達が集まれば、しばしば収拾が
つかなくなり、聞き役タイプが多ければ、
話は途切れがちになる。

言うは発散、聞くは忍耐。言うは瞬発力、聞くは持久力、
言うは易く、聞くは難し。

話さないではいられない人は、話を聞いてもらえないことが
一番応える。聞き役の人は、相手が何も話さなければ、
自分が話をしようとすることに疲れて応える。

個人の中でも、言う、聞くのバランスが大事だが、
人の集まりの中でも全体としてこのバランスが非常に
大事となる。

私は聞き役にまわることが多い。ただ、話を聞きながら、
その肝心な点を考え、その点を主眼として整理し、
理解した上で、自分の考えを一言二言伝えるが、わざわざ
そんなことをしてもらわなくとも、結論は出ていて、それを
自覚もしていて、ただ話として聞いて貰いたいという
ケースがかなり多い。

こうなると、黙って忍耐強くその人の話を聞くより
外はない。これはかなり持久力がいる。
言う、話すということよりも、聞くということのほうが
遥かにエネルギーを要す。
体調が勝れない時は、聞き役にまわるべきではない。
むしろ話し手にまわるべきだろう。

不幸なことは、言ってもわかってもらえないことと、
聞いてもわからないことである。
同じ絵を見ても、本を読んでも、音楽を聴いても、
その作者の意図とは別に人の解釈や感じ方は様々である。

それがより近い時に、互いに聞いてもらいたい相手、
聞きたい相手となるのかもしれない。
そうでなければ、壁に向かって話しているようなものとなり、
言葉の通じない人の話を聞いている様なものなのである。

「言う」、「聞く」というのは、密接に「わかる」、
「わからない」に関わり、「通じる」、「通じない」と
係わっている。

多くの人が集まる中で、話し、話を聞くという場合は、
うまくバランスが取れていればいいのだが、
それはほとんどの場合、不可能である。
基本的に、全員一致の合意などはあり得ない。

自分も人と同じ、人も自分と同じという立場で、
言いっぱなしの聞きっぱなしというスタイルは、自分も
他人もありのままを受け容れて、その感じ方も感じられ方も
人それぞれであることを徐々に理解する上で非常に有効と
思えるのである。

議論に勝って残るのは陳腐な優越感と、負けたものの悔しさ
くらいか。勝ったことが成長でもなく、かといって、
負けたものが悔い改めて良い方向に変わっていくということも
ほとんどない。

論より証拠。行動の中で、現実の証明をしていくものが自身に
とっても他人にとっても有益な結果をもたらすのである。