ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

遺されしもの

2012年05月24日 | ノンジャンル
母親の時もそうだったが、突然の訃報というのは、
思考を停止させてしまう。 
心の停止と言った方がいいかもしれない。

整理も何もつけられるはずもなく、それはもとより自分の
ことであるから、一旦脇に置いて、今だからこそ書いて
おかねばならないことがある。

この病気で身内を失った方々は、必ずその死に巻き込まれ、
引きずられ、縛られてしまう。

生きてはまわりを巻き込み、死んでも周りを巻き込む
厄介な病気なのである。

末期ガンで亡くなったのなら、周りはまだ納得もできるし、
あきらめもつく。つまり心の整理がつけやすい。

だがこの病気は違う。生前に早く死ねばよいとさえ
思っていた相手でも、その人がいざ亡くなれば、
遺されたものは自身を責め、いつまでも後悔と慙愧の
想いに縛られる。

もっとしてやれることがあったのではないか、もっとして
あげればよかった、こんなことになるならあの時・・・
なぜなにもできなかったのか・・・

非情な言い方ではあるが、結論を言えばこの病気に
対しては、つまるところ本人以外は無力である。

それが身内であれ、医療であれ、自助グループであれ、
本人に病気と闘う意志がなければ、周りは本当に無力である。

たとえ本人にその意志があっても、肉体的に、精神的に
限界を越えれば、残念ながら死に至る。
それはある意味、末期ガンと変わらない。

内科的にたとえば静脈瘤など顕著な疾患があり、
それが死因となるならともかく、この病気で亡くなる
人の死因は事故死が最も多い。

仮に自殺と判断されても、それは単に死因の分類をする
意味で振り分けられているだけで、実は事故死だという
ケースがかなり多いのである。

亡くなった小杉院長も特にこの点について重視され、
その実因の追跡調査、分類の作業をされていた。

私自身、7年前の状況は、ベランダから落ちて死んでいても
何ら不思議はない。
家族にすれば、いきなりベランダから飛び降りたという
ことでしかなく、警察はおそらく自殺と判断したであろう。

本人は幻覚に踊らされ、風に飛ばされて落ちそうな
子供の帽子をつかもうとしていたのであり、自殺する
つもりなど毛頭なかった。

つまり、酩酊や、極度の衰弱による意識障害の状況にあるとき、
本人の意志はそこにはない。
最も恐ろしいのは、どう見ても自殺にしか見えない状況でも、
本人にその意志はなかったケースが多いということである。

この病気に悩まされるのは本人ばかりではない。
その人の家族や周りの人を巻き込んで悩ませる。
だからこそ、本人が病気と向き合うために、まずは
この病気のことをよく知らねばならない。

そしてそれは本人ばかりではない。家族や周りも、
本人をどうにかしようということで悩むのではなく、
自らこの病気のことを知る必要があるのである。


病気なのは本人ばかりではない。その人に悩まされ、
苦しむ家族、周りの人も病気なのである。
いずれも、まずは病識をしっかりと身につけることが
第一なのである。

家族として、あるいは友人として、もっとできることが
あったのではないかという心情は察するに余りある。
だが、病識を持たずして何をしようが、それは本人と
自身の病状を悪化させるだけなのである。

酷なようだが、本人の生と死は、目の前に引いた
一本の線の内側と外側くらいの差でしかない。
何とか内側で踏ん張るか、躓いて外側へ出てしまうか、
それほどの差でしかない。

そして、躓く人の方が圧倒的に多いのも事実である。
それは、その人の置かれた環境とか、状況というよりも、
その人の持つ天運ともいうべきものの違いなのかも
しれないとも思う。

それでなくとも、人が死ぬという現実に際して、
遺されたものが心の整理をつけるには時間が必要である。
この病気で身内を失い、遺されたものにとっては、
あるいは普通の人の倍以上の時間が必要であろう。

心の整理をつける上で、この病気のことをよく知る
ということが、まずは必要なことではないかと思うのである。

遺されたものは、亡くなった人を忘れる必要はないし、
忘れることもできないであろうが、縛られては
ならないのである。

供養と言い、回向というのも、遺されたもの、
いや、生きているものが幸せになり、その幸せな心を
供養し、回向するのである。

誠に僭越で、傲慢な言い方かもしれない。
だがあえて、この時に書き留めておきたい。
苦悩や、悲しみを、亡くなったものに回向しても
仕方がないではないかと。



最新の画像もっと見る

post a comment