ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

謗りの効果

2007年08月18日 | ノンジャンル
基本的に、平常時には見えない部分が、他人の謗りや、罵りを
受けた時に、その人の本質的なものとして表れる事がある。

大らかに見える人が実は過敏な神経の持ち主であったり、
繊細に見える人が、実は鈍感であったり、鈍重に見える人が、
実は機敏な判断力を持つ、潔い人であったりと様々である。

他人の謗りを受けた時の、表れとしては、弁解に終始する人、
謗りを受け入れた上で、反省すべきはする人、右から左へ
流せる人、逆に受けた以上の謗りで相手を攻撃する人、騒がず、
冷静にその謗りを分析して、自身の成長へ昇華させる人等、
これまた様々である。

私はどうであろうか?

他人の謗りには、かなり敏感に反応してしまうようである。
その謗りに囚われて、しばらくは他の事が考えられなくなって
しまうかもしれない。
つまり、それだけ普段、周りからどう見られるかに過敏で、
他人の顔色を気にしすぎるきらいがあるようだ。

謗りを受けて、弁解も反省も反発も、心の中では葛藤として
表れるが、表立って、じたばたする事は無い。
結局は、その謗りを受け入れつつ、取捨選択もしているようだ。

自分では、いわゆる鈍感力が必要だと思っているが、
ひょっとすると、根本的なところで、十分鈍感なのかもしれない。

物理的にせよ、精神的にせよ、物事に囚われるという事には
堪えられない。自分自身さえも離れて、距離をおいた上で、
常に物事を鳥瞰的に見たいと、いつも考えている。

細部を見て、全体を推理するのも面白いが、全体を把握した上で、
細部を見つめていくという方が、性にあっている。

褒められている自分、罵られている自分を、外から見ている
自分であり続けたいと思うのである。


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