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欧州石炭鉄鋼共同体とGroupe Collaboration-1

2024年04月27日 | ウルズラ・フォンディアライエン・EU・冷戦

乗っ取られたのはベルギー王室も?-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中で私が「α」と書いたのは、簡単に言えば「欧州石炭鉄鋼共同体」を作り上げた人々です。それにはおそらくGroupe Collaborationと関係が強かったのではないか、と私は思います。

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-番外編(第二次世界大戦とSynarchism) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)


欧州石炭鉄鋼共同体 - Wikipedia

抜粋:

欧州石炭鉄鋼共同体(おうしゅうせきたんてっこうきょうどうたい、英語:European Coal and Steel Community、略称:ECSC)は、冷戦期に欧州6か国が設立し、歴史を経て欧州連合となった国際機関。

概要

欧州石炭鉄鋼共同体はシューマン宣言に基づき、1951年のパリ条約により設立された。条約の調印にはフランスとドイツ(当時は西ドイツ)だけでなく、イタリアとさらにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス3か国も加わった。欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で石炭と鉄鋼の共同市場を創設することが企図されていた。欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。

1956年、石炭価格規制が解除されて加盟国間で価格が自由化された。自由化直後は、翌年に連邦議会選挙を控えて、ゲオルクを解散するなどして石炭価格は低く抑えられていた。選挙が済むやいなや、炭鉱会社は価格の引き上げをECSCの高等機関へ一斉に働きかけた。価格は据え置かれて、石炭需要側はアメリカ炭に切り替え出した。

そこで西ドイツは1969年まで石油税を課した。[1] 1957年のローマ条約では欧州経済共同体と欧州原子力共同体が設立された。欧州石炭鉄鋼共同体は、これらと加盟国や一部の機関を共有した。1958年にアメリカ炭がダンピングをかけてきて、また1960年には世界の重油価格が1958年比で5/8程度に急落した。[2]

1967年、ローマ条約に鼎立した欧州諸共同体の運営機関が統一された。諸共同体は存置された。この後西ドイツは年率10%のペースで石油の消費量を増やし、天然ガスの使用量も倍増させ、原子力発電も実用化しだした[3]。より具体的には、ジーメンスとAEGの共同子会社KWU が、AEI系7カ国コンソーシアムのTNPG と技術協定を結んだ。TNPG は既にヒンクリー・ポイントBを建設した実績があった。後にハンターストン原子力発電所B原発も建設する。

これより先、欧州石炭の国際競争力は失墜した(#成果と失敗)。外資が投下され、金融面ではユニバーサル・バンク化が進んだ。ベルリンの壁崩壊翌年にドイツで固定価格買い取り制度が導入された。 2002年にパリ条約が失効し、特に更新もなく、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は欧州共同体にうけつがれた。

(中略)

1919年に出版した『平和の経済的帰結』において、ジョン・メイナード・ケインズがヴェルサイユ条約を「ヨーロッパの経済復興に資する条項を一つだに設けていない」と批判した。そこでケインズが示した具体案にはECSC構想と理解できる部分が存在した。それは次のような計画であった。連合国が設立した石炭委員会を国際連盟の付属機関として、ここにドイツだけでなく中東欧諸国と北欧中立国も参加させ、国際連盟の管理下で石炭生産体制をつくるというものである。[6]

1926年に結ばれたEntente internationale de l'acier という国際カルテルがECSC の土台となった。

1950年5月9日(のちにヨーロッパ・デーとされる)に発表されたシューマン宣言は次のように述べている。

ヨーロッパの他の国々が自由に参加できるひとつの機構の枠組みにおいて、フランスとドイツの石炭および鉄鋼の生産をすべて共通の最高機関の管理下に置くことを提案する。


ロベール・シューマン - Wikipedia

ジャン=バティスト・ニコラ・ロベル・シュマン(Jean-Baptiste Nicolas Robert Schuman, 1886年6月29日 - 1963年9月4日)は、ルクセンブルクで生まれ、ドイツで育ち大学で学んだあと、フランス占領後にフランスの政界に入り、やがてフランスの首相・外相になったドイツ系の政治家。独仏和解、ヨーロッパ和解を象徴する人物とされている。共和国民運動の党員で、欧州連合の父の一人とみなされている。

(中略)

1939年から1940年にかけ継続的に、ドイツとフランスが相互の敵愾心を乗り越えて和解するよう、独仏和解、ヨーロッパの和解を、友人や周りの人々に語りつづけており、1940年に国会議員であったシューマンはペタンへの全権委任に賛成票を投じた。

 

Ernst Albrecht (politician, born 1930) - Wikipedia


戦後、ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの父親は、まず欧州石炭共同体に努め、やがて州知事も務めますが、この時の主政府は元ナチスを持ち上げていたとのこと。

オマケ:

Copilotという機能-7(「Various Topics goo Copilot」) - Various Topics 2

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