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20世紀のポーランド-ビルダーバーグ~ウルズラ・フォン・ディア・ライエン~ヨハネ・パウロ2世

2023年02月20日 | ウルズラ・フォンディアライエン・EU・冷戦

1960年代生まれの私には、「ポーランド」は共産圏の小国であり、ベルリンの壁崩壊後は、「遅れた小国」のままでした。

私が40代のころ、たまたま知り合った20代半ばの日本人女性で、「恋人でもないポーランド人について行って、しばらくポーランドで過ごした」といっている人がいました。彼女は高校を卒業して建設関係の仕事に就き、一旦やめてポーランドに行き、私は彼女が帰国して再就職先を探しているときに知り合いましたが、もし私が就職先の面接官であれば、即「採用」したと思うほど、頭の回転がよく、自分を持った女性。

その彼女のなかのポーランドのイメージ(彼女のポーランドに行く前と後のイメージ)と、私の中のイメージはだいぶ違っていました。

ポーランドのことを知らベて行くうちに、多くのことに気が付かされましたが、その一つが、平均的日本人の60年代生まれの持つイメージは、本当の姿とはかけ離れていたということです。

 

かけ離れたイメージがあったせいで、ビルダーバーグ会議の立役者がユダヤ系ポーランド人だったことにひっかかり、

ポーランドのジョセフ・レティンガーがビルダーバーグ会議設立にかかわるようになるまで - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

現在の欧州委員会の委員長ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが1978年にロンドンに留学していたときに下宿したのが、のちのポーランド副首相(祖父の代で改宗)のロンドンの母親が住んでいた家というのも気になっていました。

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンのロンドン時代 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンが下宿していた家・ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Jacek Rostowski - Wikipedia

抜粋:

Jan Vincent-Rostowski was born into a Polish-Jewish exile family in London. During the Second World War his father, Roman Rostowski, served as personal Secretary to Tomasz Arciszewski, Prime Minister of the Polish government-in-exile and did not return to Poland after the war. In the 1950s, Roman Rostowski worked for the British Foreign and Commonwealth Office with postings to Kenya, Mauritius and the Seychelles where Jacek Rostowski spent much of his childhood.[3] Jan's grandfather was Jakub Rothfeld (who left Judaism, changed his surname to Rostowski and regarded himself as a Pole), a professor of neurology at the John Casimir University in Lwów.[4]

 

このウルズラ・フォン・ディア・ライエンがロンドンにいた1978年、この年はローマ教皇に初のポーランド人が選ばれました。

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) - Wikipedia

抜粋:

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus II, 伊:Giovanni Paolo II, 1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世、ヨアンネス・パウルス2世[1]とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。

ハドリアヌス6世[注釈 1]以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして、史上初のポーランド人教皇である。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でもある。カトリック教会の聖人で[注釈 2]、教皇ヨハネ23世とともに列聖された[注釈 3]。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。

(中略)

カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。

ヴォイティワは若くして家族の喪失を体験した。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。

(中略)

1978年にパウロ6世の帰天に伴って新教皇に選出されたのは、当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)であった。このコンクラーヴェに参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェに参加することはないだろうと思っていた。

ところが、ヨハネ・パウロ1世が不可解な状況下で在位わずか33日で帰天。1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになった。

コンクラーヴェではイタリア出身の枢機卿の二人が激戦を繰り広げたため選出が停滞、その中でドイツや南米出身の枢機卿らがポーランド出身のヴォイティワを支持し始めると一気に形勢が逆転[3]して、生涯2度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出された(10月16日選出、10月22日就任)。

ヴォイティワは、前教皇ヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗った。そして新教皇として、第2バチカン公会議の精神の実現を前教皇から引き継ぎ、現代社会に適合した形への典礼の刷新を推進した。

ヨハネ・パウロ2世は、ポーランド人初のローマ教皇であり、社会主義国初の教皇の誕生でもあった。このことは故郷ポーランドにおいてナショナリズムの高揚と、社会主義国としてソビエト連邦の衛星国であることへの抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。

33日間だけの教皇ヨハネ・パウロ1世のウィキペディアです。

ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇) - Wikipedia

抜粋:

ヨハネ・パウロ1世(羅: Ioannes Paulus I、伊: Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の司祭。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。

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