イタリアン・ファシズム-3(乗っ取られたように感じるサヴォイア家) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
で、
③番目のスイスに逃げたサヴォイア家(サヴォイア・カリニャーノ家)ですが、よく考えてみるとスイスに逃げたのは元ベルギー王女と子供たち。当時の党首のヴィットリオ・エマニュエーレ3世は戦後はエジプトに逃げ、彼の息子ののウンベルトはポルトガルに逃げ、そして彼の孫はベルギー王女だった母親とスイスへ逃げたので、この段階でサヴォイア家は実質ベルギー王室(+α)が乗っ取った形になったのではないでしょうか?
と書きましたが、「ベルギー王室(+α)」というよりも、「α+ベルギー王室」と本当はしたかったところ。
第二次世界大戦前後、ベルギーのアルベール1世は1934年に山中で遭難。58歳没。
跡を継いだレオポルド3世の妻アストリッド王妃は1935年に29歳で自動車事故死。(運転していたレオポルド3世は無事)。
レオポルド3世は反ユダヤで(策略もあってか)ナチスより。ベルギー亡命政府と対立。
1944年~1950年は弟のシャルルが摂政になり、
1951年でレオポルド3世が退位し、息子のボードゥアン1世を国王に。1993年に62歳で心不全で崩御。
(その後、
1944年~1950年のシャルル弟帝の摂政時代から、ベルギー王室は「α」に操られるようになったのだと思います。
シャルルのフランス語版Wikipediaから-
Charles de Belgique — Wikipédia (wikipedia.org)
抜粋Google翻訳:
摂政をしたシャルル時代
1944年6月9日、国王レオポルド3世とその家族がドイツ軍に連行される間、シャルル皇太子はサルト・レズ・スパの小さな農場に隠れていた。 1944年9月、ベルギーはベルギー部隊の参加により連合国によって解放されたが、国王はドイツのどこにいるのかを知る捕虜となっていた。 この状況では、国王が不可欠な部分である行政権を完全なものにするために、王権の空席を埋める必要がある。
政府は1944年9月から4年半にわたりその政策について議会の承認を求め、その過程で摂政をシャルルに委任する提案を決定した。
(中略)
その後、シャルル皇太子は憲法上の摂政宣誓を行い、1944年9月20日に摂政に就任した。こうして彼は、国王の不在によって首を切られた君主制を救い、同時に、実行される政策に対して議会が与える承認を支持した。戦争中ずっと亡命政府によって。 以後、シャルルは1950年7月20日にレオポルド3世がベルギーに帰国するまで王室大権を行使することになる。
(中略)
摂政太子の治世下、ベルギーは 1945 年の国連設立に参加することで国際的な役割を取り戻しました。創設会議の議長はベルギー外務大臣ポール アンリ・スパークであり、同氏は 1939 年から継続してその職を務めていました。戦争中ずっと自由政府で。 その後、1948 年の NATO に続き、1949 年に欧州評議会が設立されました。ベルギーがこの条約に加盟したことにより、冷戦の圧力下でベルギー軍の大規模な再軍備が行われました。 軍はまた、ベルギー国境から鉄のカーテンまで広がるドイツのNATOのニッチな軍事地帯を占領することになる。 この場合、1940年にドイツに攻撃された小国の中でベルギーは唯一である。 この政策には摂政の同意が与えられており、摂政の連署がなければ不可能であったであろう。
これは、スイスに強制亡命させられた国王との論争を引き起こすことになる。 彼は、1940年にこの国に留まることで統治の不可能性が定められたが、最終的に議会によって解除されるまで待たなければならない。 1945年から1946年にかけて、摂政やアキレ・ヴァン・アッカー首相などのベルギー閣僚らとの嵐のような会見の後、レオポルド国王は、さまざまなベルギー政府の政策に対してあまりにも自己満足しすぎていると考えた弟に対して敵意を示し、そして何よりも、ロンドン亡命政府の政策を支持。 このようにして、摂政は就任後、次のような連合国との経済協定をカバーした。