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サンシモン主義者-6(「社会学」創始者のオーギュスト・コント)

2023年03月10日 | サンシモン主義者(信者)・銀行家

 

「予知するために予見する。予見するために観察する」

という言葉を遺した、オーギュスト・コントも最初はサンシモンの弟子だったのですね。

サンシモンが亡くなる前にコントは彼のもとを去っていなかったなら、サンシモン主義は、アンファンタン達によってカルト宗教に変えられることはなかったのでしょうか。

彼が愛する女性を失った後に、「人類教」なる宗教を立ち上げたのは皮肉です。

 

オーギュスト・コント - Wikipedia

イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント(フランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランスの社会学者、哲学者、数学者、総合科学者。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。

(中略)

誕生 1798年1月19日、コントはフランス共和国の南部・地中海に面したオクシタニー地域圏のエロー県の都市モンペリエで生まれる[2]。 父は徴税官を務めるルイ・オーギュスト・コント、母は旧姓ロザリ・ポワイエという女性で、両親は1796年12月31日に結婚して、間もなくこの二人の夫婦の間にコントは長男として誕生した。

その後、一家には妹が一人、そして二人の弟が生まれた。両親は熱心なカトリック信者で王党派の支持者であった。したがって、両親は長男に立派なカトリック信者となってもらいたいとの願いから聖母マリアや聖人たちの名をつけ、イシドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コントと命名する[3]。

フランス革命以降、フランスでは第一共和政が樹立され、啓蒙の名のもとに 非キリスト教化運動が進められていた。恐怖政治期を通じて教会堂は没収され、司祭は追放されるか投獄され、モンペリエ大聖堂(フランス語版)は「理性の神殿」に改装された他、サント・ユーラリ教会は倉庫として利用された。

1794年の「理性の神殿」除幕式では、ニコラ・アンドレ・フェランという帽子職人が演壇に立ち、「久しく欺瞞によって汚され、今も虚偽の悪臭を放っている本祭壇に、今こそ、私は真理の香気を与えようと思う」と除幕演説をおこなった。そして、ユダヤ人で美女として知られたジュリーが「理性の女神」に扮して行進が執り行われた。モンペリエの町にもギロチンが設置され、王党派と司祭たちが次々と処刑され、モンペリエ大聖堂の参事であったジャン・ピエール・コントが処刑されるなどコント家の親族にも犠牲者が出た[4]。

(中略)

1806年、コントは9歳に入ると寄宿生としてリセに入学することになる。当時のリセは軍隊式の寄宿生活を教育方針とし、文系教科として古典のラテン語、数学をはじめとする理系教科が設定された。コントは文理両教科で共に優秀な成績をおさめた。1812年にはエコール・ポリテクニック入学に必要な学力を修養していたが、年齢資格を満たしていなかったためしばらくリセに留まった後、1814年に同校に入学試験を受けて合格を果たした[6]。コントはナポレオン体制の反動的支配と両親から離れてリセでの息苦しい軍隊教育を受ける中でカトリック信仰を捨てて、やがて共和主義者へとなっていく[7]。

(中略)

1816年8月、18歳となっていたコントは秘書を募集していたサン=シモンの下で助手を務めるようになった。毎月300フランを支給される契約となっていたが、サン=シモンが破産状態で経済難にあることを知るとコントは俸給を辞退して、数学の家庭教師をしながらサン=シモンを支えるようになった。それだけの魅力を知ったためである[20]。 サン=シモンは伯爵位を持つ貴族出身の人物で革命前までは裕福な生活をしていたが、革命の動乱の中で零落しており、コントが出会ったときにはすでに56歳で困窮した老人であった。彼は16歳で軍に入隊してアメリカ独立戦争に参加して名を馳せた人物で、フランス革命期には投機家として活動していたが、投機を危険視するフランス政府によって逮捕され、リュクサンブール宮殿の監獄に投獄された。知人や友人をギロチン刑に奪われていくなか、ロベスピエールがテルミドールの反動で処刑され、釈放された後もナポレオン帝政、王政復古を経験していた。当然ながら啓蒙思想が説く悪戯な観念に反感を抱いており、老齢に達しながらも情熱に燃えて多くの弟子を抱えて、「反革命」(合理主義に基づく「秩序と進歩」)を柱に科学・産業・政治の再編を模索していた人物であった。ナポレオン戦争が終結した1815年以降、サン=シモンはジャン=バティスト・セイをはじめ気鋭の学者たちとサロンで交友し、これからは無意味な革命や戦乱の時代ではなく、産業と経済発展の時代だと考えていた。

(中略)

コントはパリの学生街カルチエ・ラタン界隈でアパート暮らしをしながら、サン=シモンの下で研鑽を積んだ。サン=シモンが語り、コントが体系的に執筆していくという師弟関係が成熟して、多くの成果を生み出していった。しかし、1820年に入るころには博学優秀なコントは、サン=シモンから大部分の思想を習得していた。20歳を迎えたコントは師のサン=シモンから精神的に思想的に決裂していき、やがて独立を果たすようになった。

(中略)

産業革命によって工業化を果たしつつあるフランスに適した法や制度を制定していくこと、学者や産業者(資本家と労働者)が中核となって構成された政府が主導する「上からの近代化」が必要であると説いた。 そのために、中世からフランス革命に至るフランス史の流れが総括された。

(中略)

1832年、コントは年俸は2000フランでエコール・ポリテクニックの復習教師に任命され、1837年に年俸は3000フランで入試試験官として1851年まで勤務した。また塾で数学を教え、家庭教師の仕事にも従事し、3000フランを稼いでおり、また雑収入を合わせて1万フランの収入をもつようになった。これにより、コントはようやく安定収入をえるが、せいぜい夫婦二人が切りつめて暮らせるぐらいの収入であったといわれる[38]。

コントは教授職など自分の能力に合ったより高い地位を望んでいたが、コントの研究や学問構想は認められていなかったばかりか、総合科学者であったコントに対する専門家の評価は厳しかったのである。チャンスがやって来ては去るを繰り返すなかで、コントは陸軍大臣スールト元帥に面会して教授職への推薦を要望して面会したが結局、試みは失敗して復習教師や入試試験官という地位に甘んじることになった[39]。

職業的大成に挫折したことに加えて、コントを苦しめたのは家庭問題であった。

その原因は妻カロリーヌの度重なる不貞である[34]。彼女は夫の稼ぎの悪さを非難して事あるごとに喧嘩をし、1842年6月15日の大喧嘩では「庭つきの綺麗なアパートを与えてくれるならすぐに出て行く」と口にした[40]。カロリーヌは一度ならず幾度(1826年、1833年、1838年、1842年の四回目は決定的別居)も家を空けて放蕩を重ねた。そのたびに大金を持って帰宅してコントの生活を支えた。コントの自尊心は傷つけられ、感情的に打ちひしがれることが多くなった[34]。


1865年のジョン・スチュアート・ミル。
また、カロリーヌは知的で純粋なコントとは異なり、世慣れした女性で、苦労性のコントと生き方が違っていた[41]。二人は互いに理解し合い支えあえる関係を築けないまま、1842年に別れてしまう。ただし、二人はその後も手紙による連絡を取り続け、コントもカロリーヌを嫌いながらも別居中の生活費として毎年3000フランを支払っていた[38]。

コントは、人生において理不尽な不遇の境遇におかれていたものの、著名な学者や知識人と交友を持った。

交流をもった著名人の一人がジョン・スチュアート・ミルである。1820年、早熟の天才ミルは14歳にしてフランスに渡り、サン=シモンやセイと交流している。彼は幼少期からコントの文献も読んでいたが、成人してからベンサム的な功利主義にしだいに疑問を抱いていく。ミルは自身が語る「精神的危機」に直面する中で、糸口をフランスの合理主義思想に探し始めていく。こうした経緯から、1841年『実証哲学講義』を執筆中のコントの思想にミルは夢中になっていき、11月8日にコント宛てに書簡を送付して二人は交流をもつ。

(中略)

人類教と晩年

求職のために活動していたコントは頻繁に各界の有力者を訪ねていた。陸軍大臣スールト元帥に面会したのも、エコール・ポリテクニックの卒業生で弟子のマキシミリアン・マリ(英語版)の父ジョゼフ・シモン・マリ将軍に取り次ぎを依頼してのことであった。コントは空しい結果に終わった求職活動の中で一人の若く美しい女性に出会う。それが、マキシミリアンの姉クロティルド・ド・ヴォー(英語版)である[48]。

出会った時、コント46歳、クロティルド29歳であった[49]。

(中略)

コントはそんな魅力あふれる一人の女性クロティルドに出会い、一目惚れをしてすっかり魅了されてしまうのである。

しかし、現実には彼女は夫に捨てられて貧しい生活を余儀なくされていたばかりか、このときにすでに結核と思われる不治の病魔に侵されていた。コントは彼女に90通ちかくの情熱的な恋文を送り、次第に彼女も心を開いていったのか、短い返信が多かったもののコントの手紙に返事を続けて、最終的に181通の往復書簡を交わしていく[49]。コントはクロティルドに求愛して二人はやがて親密な関係となっていき、大恋愛の中で結婚を約束するが、死を前にしたクロティルドに拒絶されたため、この約束は結局果たされなかった。1847年4月5日、コントが看取る中でクロティルドは若い生涯を終えてしまう[51]。彼女はペール・ラシェーズ墓地のマリ家の墓所に埋葬された[52]。

最愛の女性を亡くしたのち、コントの思想と行動に変化が生じていった。


コントは葬儀の後もクロティルドを失った悲しみを引きずり、クロティルドを聖女として毎週水曜日に墓所に詣で、日々を聖女の礼拝をおこなう祈りの人となっていった。祈りを通じて、コントの心中で愛する科学と愛する女性と人類愛が宗教的に融合していくようになる[52]。これまで「秩序と進歩」をモットーにしていたコントは、「愛を原理とし、秩序を基礎とし、進歩を目的とする」というように、実証主義こそが人類愛の精神を体現したものだと説くようになった。最終的には「人類教」という宗教を提唱する。やがて、コントの内面の中ではクロティルドへの愛、母ロザリ・ポワイエへの愛、メイドのソフィ・ブリオへの愛の結果、三人は天使になっていく[53]。

『実証政治学体系-人類教を創始するための社会学概論』(全4巻,フランス語: Systéme de politique positive, ou de Sociologie instituant la Religion de l'Humanité,1851-54)がこの時期の代表作である。本書は第一巻で一般的見解を提示、第二巻で社会静学、第二巻で社会動学を取りあつかい、最後の第四巻は特徴的な思想を加えようとした。科学的精神のみでは人間的な魂に欠けており社会秩序の安定は図れないと考えていた。かつてジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』において「市民宗教」を重視したように、コントも社会の統合を可能とする宗教精神の再興「人類教」の創設を論じたのである[54]。

(中略)

死とその後

1857年5月末、コントは友人の葬儀に出席して風邪をひいて悪化させていた。結局、彼は寝込んでしまい、クロティルドの墓所に通うことができなくなったが、単なる風邪に留まらず致命的な病気を抱えていたのである。病魔の正体は癌だった。何度も吐血し後、9月5日早朝、近代科学の巨星オーギュスト・コントは世を去った。コント59歳であった[55]。

(後略)

 

Auguste Comte - Wikipedia

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