Various Topics 2

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イタリアン・ファシズム-6(ムッソリーニ殺害を命令したのは…)

2024年04月24日 | オリベッティと反ファシスト

『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ベニート・ムッソリーニの死 - Wikipedia

(前略)

かつてイタリアのファシスト独裁者として君臨していたベニート・ムッソリーニは、1945年4月28日、第二次世界大戦の欧州戦線が最終局面を迎える中で死亡した。ムッソリーニの最期は、北イタリアのジュリーノ・ディ・メッツェグラという集落で、正式な裁判にかけられることなく、パルチザンによって即時処刑されるというものだった。イタリア国外の歴史家は、ムッソリーニはヴァルテル・アウディージオ(英語版)という共産党のパルチザンによって銃殺されたとの見解でほぼ一致している[1]。しかし、イタリア国内ではムッソリーニが死を迎えた状況ならびにムッソリーニを殺害した人物をめぐって戦後から現代に至るまで議論が続けられており、今日においても混乱や論争が引き起こされている。

概要

1940年6月、ムッソリーニはイタリア王国をドイツの側で第二次世界大戦に参戦させたが、戦況は次第に悪化した。1943年秋の時点で、ムッソリーニは北イタリアに樹立されたドイツの傀儡政権の指導者に身を落としており、南から進攻してくる連合国のみならず、国内のレジスタンス(パルチザン)の脅威にも直面していた。1945年4月、連合国軍がドイツ軍の北イタリアにおける最後の防衛線を突破し、パルチザンの一斉蜂起が各都市を席巻する中、ムッソリーニの身にも危険が迫っていた。1945年4月25日、ムッソリーニは本拠としていたミラノを離れ、スイスとの国境に向かって逃走した。4月27日、ムッソリーニとその愛人クラーラ・ペタッチは、コモ湖畔のドンゴという町の近くで、地元のパルチザンにより逮捕された。

(中略)

1945年4月27日午後4時、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕された。ムッソリーニはドンゴまで連行され、町の役所に勾留された。まもなく、愛人のペタッチも同様に逮捕され、ドンゴに連れてこられた[17]。最終的に、車列からは50人以上のファシスト党幹部とその家族が発見され、パルチザンによって逮捕された。そのうち、最重要人物とされた16人(ムッソリーニとペタッチを除く)が、逮捕の翌日にドンゴで即時処刑(銃殺)された。その後の2日間ではさらに10人が処刑されることとなった[18]。


ムッソリーニの愛人クラーラ・ペタッチ

4月27日午後7時頃、ムッソリーニの身柄は、ドンゴから少し離れたジェルマージノという集落の、財務警備隊(英語版)の兵舎に移された[19]。ジェルマージノでムッソリーニは、パルチザン指揮官のベッリーニ・デッレ・ステッレに対し、ドンゴに残されていたペタッチへの伝言を頼んだ。ドンゴでムッソリーニからの伝言を受け取ったペタッチは、彼の側に居たいとベッリーニ・デッレ・ステッレに懇願したため、彼はペタッチをムッソリーニの元に連れて行った[20]。ドンゴ周辺では依然として戦闘が続いており、パルチザンたちはムッソリーニとペタッチが、ファシスト党の支持勢力によって奪還されることを恐れていた。そこで、真夜中になってから、近隣で農業を営むデ・マリアという人物の家まで再度2人を移送した。安全な監禁場所と考えられたこの民家で、ムッソリーニとペタッチは残りの夜を過ごし、翌日も大半の時間をそこで過ごすことになった[21]。

ムッソリーニが逮捕された日の午後、アレッサンドロ・ペルティーニ(北イタリアにおける社会党パルチザンのリーダー)はラジオ・ミラノの放送上で次のように宣言した。

「無法者集団の首領であるムッソリーニは、憎悪と恐怖に満ちた様子で、スイスとの国境を越えようとしたところを逮捕された。ムッソリーニの身柄は、速やかにイタリア国民による法廷に引き渡され、裁かれねばならない。我々は、この男は銃殺の名誉に値しないと考えているが、それでも裁判にかけることが必要である。本来、ムッソリーニは不潔な犬のごとく殺されるべき男だ[22]。」

処刑命令

誰がムッソリーニの即時処刑を決定したのかについては諸説が存在する。イタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティは、ムッソリーニが逮捕される以前に自分がムッソリーニの処刑を命令していたと主張した。トリアッティは1945年4月26日に、「彼ら(ムッソリーニらファシスト党幹部)の処刑を決定するために必要な条件は、彼ら本人であることの確認だけだ」とのメッセージを無線電信で送ることで、ムッソリーニ処刑の命令を下していたと述べた[23]。トリアッティはさらに、イタリア王国の副首相およびイタリア共産党の書記長として処刑の命令を下したと主張した。のちに、当時のイタリア王国首相イヴァノエ・ボノーミは、トリアッティの命令が政府としての権限や承認を得たものであったことを否定した[23]。ミラノの上級共産党員であったルイージ・ロンゴ(英語版)は当初、ムッソリーニ処刑の命令はパルチザンの軍総司令部から「CLNAIの決定を受けて」下されたものであったと語っていたが[23]、のちに異なる証言を行い、ムッソリーニ逮捕のニュースを知ったロンゴとフェルモ・ソラーリ(行動党(英語版)のメンバー)が、ムッソリーニが即時処刑されるべきとの意見でただちに一致し、ロンゴが処刑執行の命令を下したと述べた[23]。


ルイージ・ロンゴ(左)とパルミーロ・トリアッティ (戦後のイタリア共産党党大会にて)
CLNAIにおける行動党の代表だったレオ・ヴァリアーニ(英語版)の証言によれば、ムッソリーニ処刑の決定は1945年4月27日の夜、CLNAIを代表して活動するグループ(ヴァリアーニ、ペルティーニ、共産党員のロンゴとエミリオ・セレーニから成る)によって下されたという[22]。CLNAIはムッソリーニの死の翌日、ムッソリーニがCLNAIの指令によって処刑されたと発表した[10]。

(中略)

ムッソリーニの死をめぐっては、その他にも諸説が発表されており[10]、その中には戦後にイタリア共産党書記長になったルイージ・ロンゴだけでなく、未来のイタリア共和国大統領アレッサンドロ・ペルティーニもまた、ムッソリーニ銃殺の実行者であったと主張するものもある。このほか、ムッソリーニ(またはムッソリーニとペタッチの2人とも)がシアン化物のカプセルを用いて自殺したとする説も存在する[81]。

 

アレッサンドロ・ペルティーニは

『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-番外編(ナタリア・ギンズブルグへの疑問) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いたとおり、裁判なしにオズワルド・ヴァレンティとルイザ・フェリダの処刑をすることを指示したといわれています。

 

考えてみれば、リビアのカダフィ暗殺も殺害者が曖昧でしたし、イラクのフセイン大統領の暗殺も、オサマ・ビン・ラディンの暗殺&水葬も加えて、裁判なしで早急な殺害という点では同じです。


なお、上のWikipediaによると、こう。

抜粋:

ムッソリーニらの遺体は積み重なった状態で放置された。4月29日午前9時を回る頃には、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていた。群衆は遺体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、銃撃し、足蹴にした。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形した[47][48]。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べた[48]。

その後しばらくして、ムッソリーニらの遺体はスタンダード・オイルのガソリンスタンド(建設途中)の骨組みの桁まで持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされた[47][48][49]。

(中略)

 1945年4月29日午後2時頃、ミラノに到着していたアメリカ軍当局が、逆さ吊りされたムッソリーニらの遺体を降ろすことを命じ、検死の準備のため遺体を遺体安置所に移送させた。遺体安置所では、あるアメリカ陸軍のカメラマンが移送後の遺体の写真をいくつか撮影したが、その中にはムッソリーニとペタッチの遺体にポーズを取らせ、あたかも2人が腕を組んでいるかのように見せたものも含まれていた[51]。

1945年4月30日、ミラノ法医学研究所でムッソリーニの検死が行われた。ある検死報告書では、ムッソリーニは9発の銃弾を受けたとされ、別の報告書では7発の銃弾を受けたと述べられている。そのうち、心臓に近い位置の4発の銃弾が死因として示された。銃弾の口径は特定されなかった[52]。このほか、遺体からはムッソリーニの脳の標本が採取され、分析のためアメリカへと送られた。その意図は、「梅毒がムッソリーニの精神異常を引き起こした」という仮説を証明することにあったが、脳の分析結果は梅毒の存在を示さず[53]、梅毒の証拠はムッソリーニの身体からも発見されなかった。一方で、ペタッチの検死は一切行われなかった[54]。

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